・干した海藻を焼いて灰塩(はいじお)をつくる(この時代は塩ではなく灰塩が最終製品)
・やがて灰塩に海水を注いで、かん水を採るようになる。
・6〜7世紀になると、干した海藻に海水をかけ、かん水を採るようになる。
・海藻にかわって、塩分が付着した砂を利用してかん水を採る(8世紀)。
・海藻を利用して採ったかん水を土器で煮つめた。
・塩地で得られる大量のかん水を煮つめるため、製塩土器に替わって発達した。
・一部では、中国から渡来した8世紀のものと考えられる「鉄釜」も見られたが、非常に貴重な資材であり、一般の製塩用ではなかった。
・採かん地に手を加えるようになり、次第に塩浜の形態に発達した(9世紀)。地域ごとの条件の違いにより、入浜(いりはま)系と揚浜(あげはま)系に大別できる。
・干満の水位差を利用して原料海水を自然に導入する方法。
・干満差が大きい地域の、干潟が発達したところ(内海や河口など)で発達。
・自然のままの干潟を利用した「自然浜」から、しだいに、堤防や海水溝、沼井(ぬい=かん水溶出装置)などが作られるようになり、徐々に入浜の形態が整っていった。
・人力で原料海水をくみ揚げる方法。
・干満差が小さいところ(日本海側)や、外海に面して波浪が荒いところ(太平洋側)で発達した。
・揚浜の一般的な形態で、夏季に自然のままの海浜の砂面を利用した。
・能登地方や大隅地方に見られた。多くは昭和30年代までに姿を消したが、能登地方では、文化財として、1軒だけ現在まで存続している。
・一般的な「土釜」のほか、地域ごとにさまざまな形の塩釜が発達した。
・土釜から発達した形で釜底に石を敷きつめ、そのすき間を漆喰でうめた釜で、多くの地域で見られた。
・割り竹で編んだ芯材(網代)の表裏に漆喰を塗って作った釜で、竹鍋ともいう。
・一部では国産の鉄釜が見られるようになった。 宮城県塩竈市の塩釜神社には4基の鉄釜が保存されており、そのうち、1基は12世紀、3基は15世紀のものと考えられている。
・能登地方、伊勢地方などで見られた。能登地方では、文化財として現在まで存続している。
・江戸時代以降、瀬戸内海を中心に築造された。正保2年(1645)に赤穂新浜が開発され、以降、瀬戸内海沿岸の十か国が日本の製塩の中心となり、「十州塩田」と呼ば れた。
・十州塩田で、大量のかん水を煮つめるために使われた(幅2.7m、奥行3.6m、深さ0.12〜0.15m程度)。
・塩浜に不向きな気候の三陸地方では、採かん工程を持たず、海水を直接塩釜で煮つめる「海水直煮(かいすいちょくしゃ)」と呼ばれる製塩も行われていた(素水製塩)。
・長方形の薄い練鉄を何枚も鉄鋲で継ぎ合わせた釜で、海水直煮用に使われた。
・少しずつ改良されながら、瀬戸内海を中心に、昭和34年(1959)まで存続した。
・流下盤(りゅうかばん)と枝条架(しじょうか)を組み合せて、太陽熱と風力を有効に利用する採かん法。昭和27年から昭和34年(1952〜1959)にかけて、『入浜式塩田』が『流下式塩田』に転換していった。
・イオン交換膜を利用し、電気エネルギーによって、かん水を採る方法。昭和47年(1972)、『流下式塩田』から全面的に切り替えられた。
・明治以降、石釜に替わって、瀬戸内海の十州塩田に普及した。
・結晶釜で発生する蒸気をかん水の予熱に利用する方法。昭和10年(1935)ごろから普及した。
・昭和27年(1952)には大規模な「加圧式蒸発装置」が開発され、一部の地域では、採かん工程を持たない『加圧式海水直煮製塩』も行われた。
・昭和2年(1927)に最初の工場が完成し、いくつかの『入浜式塩田』のかん水を1ケ所に集めて煮つめる装置として導入されて以降、せんごう装置の主流として普及した。昭和46年(1971)に大規模装置が導入されて、現在に至る。