特別展Exhibition

西村屋与八

馬喰町二丁目角

ふがく三十六景
「冨嶽三十六景 東海道吉田」

 西村屋与八は、鶴屋喜右衛門、蔦屋重三郎と並ぶ江戸の有力地本問屋である。宝暦頃(1751〜1764)から草双紙や浮世絵の出版を行い、早くから鳥居派の浮世絵師とつながりを持ち、天明頃(1781〜1789)には美人画で著名な鳥居清長の作品を多く出版していた。書物問屋仲間には、享和(1801〜1804)の初め頃にまでに加入したと思われる。
 『江戸作者部類(えどさくしゃぶるい)』には次のようなエピソードが載る。西村屋の二代目は鱗形屋孫兵衛(うろこがたやまごべえ)(江戸の古い地本問屋)の次男であるが、この二代目はたいへん誇り高く、作者や絵師の方から依頼がないと出版しない、版元から原稿を頼んだりはしない、という方針であった。当時人気作者であった山東京伝は、この話を聞き、西村屋に出版を願ったため西村屋と親しくなり、また、新進作者であった柳亭種彦もたびたび挨拶に西村屋を訪れ、家族ぐるみの付合いになった。しかし、やはり人気のあった作者曲亭馬琴は、決して西村屋に頭を下げなかったため、二代目とは往き来することがなく、文政(1818〜1830)のはじめ、二代目の没後に三代目が原稿を依頼してきたので、以来、馬琴と西村屋のつながりができた、というのである。以上の話がすべて事実であるかどうかは判らないが、化政期(1804〜1830)の西村屋は、確かに柳亭種彦との関わりが強く、種彦作・歌川国貞(後の三代目歌川豊国)画の『正本製(しょうほんじたて)』−文化12年(1815)〜天保2年(1831)−の出版は特に著名である。また、葛飾北斎の浮世絵も多く出版しており、天保初年の「冨嶽三十六景」シリーズも西村屋版である。しかし度重なる火災によってか、天保の半ばから、西村屋は衰えを見せる。

 


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