特別展Exhibition

III 天保の改革と出版物

天保の改革と新しい検閲

 天保十二年(1841)五月、老中水野忠邦を中心とするメンバーにより政治改革令が出された。天保の改革の特徴の一つとして、ぜいたくや風俗の乱れに対する取締りが非常に厳格であったことがあげられる。歌舞伎に対する弾圧や、寄席の制限が見られた他、出版物への統制も厳しく行われ、庶民のささやかな娯楽が改革によって奪われていった。

 寛政二年(1790)にも出版物全般に対する統制令が出されていたが、天保十三年(1842)六月の出版統制令は、それよりも、はるかに厳しいものだった。例をあげると、寛政の統制令では浮世絵に一般の娘の名前を特定して描くことは禁止されたものの、一般の人ではない遊女や歌舞伎役者などを描くことについては問われなかった。しかし、天保の出版統制では、そういった人気商売の人々まで、浮世絵の題材とすることが禁じられた。庶民向けの小説類も同様で、登場人物を歌舞伎役者に似せて描くことや、ぜいたくな風俗を描写することが禁止された。見せしめのためか、柳亭種彦や為永春水といった人気作者が風紀を乱すとして罰せられ、種彦の『偐紫田舎源氏』も、絶版という処分を受けた。

 そのような中、ちまたでは、歌川国芳が描いた『源頼光公館土蜘作妖怪図』について、改革で弾圧された諸産業を描いているとの風評が立った。

 老中水野忠邦は、あまりに厳しく改革を断行したため反発を買い、天保十四年閏九月罷免された。水野はその後一時再任されるも、改革はゆるんでいった。しかし、一度打撃を受けた出版界では、改革の余波を恐れてか、しばらくは自粛しながらの出版が続いた。


検閲印(改印)の変化

 天保の改革では、物価を抑える目的で、天保十二年(1841)十二月、同業者が組織していた株仲間が解散となった。当時、庶民向けの出版物を扱っていた版元たちは、地本問屋と呼ばれ、やはり地本問屋同士で仲間を組織していたが、その仲間も解散させられた。

 寛政二年(1790)十月末以降、地本問屋の仲間は、当番制で行事を勤め、その行事は浮世絵などについて出版の事前にその絵の検閲を行っていた。検閲は、当時の言葉で「改(あらため)」と呼ばれたが、その「改」が行われたしるしに、「極(きわめ)」の字の丸印が押された。これ以後、浮世絵の画面には、その印=改印が見られるようになる。寛政十二年(1800)より、江戸の町名主から浮世絵などの改掛(あらためかかり)の名主が定められ、「改」には、改掛(あらためかかり)の名主たちが交代で関わるようになっていたが、まだ仲間の行事が窓口的な役割を果たしていた。しかし、天保の改革によって、地本問屋仲間が解散すると、仲間の行事が「改」を行うことはなくなり、同時に「極」の字の丸印そのものが使われなくなった。かわりに画面に登場するのが、直接的に「改」を行うようになった町名主たちの名前の印である。町名主は数人が任命され、月ごとの交代制で「改」を行っていたが、名主の印は、天保十四年(1843)から弘化三年(1846)十一月までが一つ(単印)、弘化三年十二月から嘉永六年(1853)十二月までが二つ(双印)となっている。

 名主印が「改」の印として使用されていた時期は、全般的に、制作者側は幕府に対してかなり遠慮していたといわれるが、特に名主印が一つの時期の作品は、改革の影響が最も強く、出版界が相当な打撃を受けていた時期のものである。

名主の在任期間

極字印
極字印
  和田源七(天保13年10月まで?) 田中印 田中平四郎(天保14年7月〜弘化2年2月まで)
  大塚五郎兵衛(天保13年12月まで) 村松印 村松源六(天保14年7月〜)
竹口印
竹口庄右衛門(天保14年6月まで) 衣笠印 衣笠房次郎(天保14年7月〜)
渡辺印
渡辺庄右衛門(天保13年11月〜弘化3年閏5月まで) 浜印 浜弥兵衛(天保14年7月〜)
高野印
高野新右衛門(天保14年11月まで) 米良印 米良太一郎(天保14年7月〜)
普勝印
普勝伊兵衛(弘化4年3月まで) 馬込印 馬込勘解由(嘉永元年11月〜)
村田印
村田佐兵衛(天保14年7月〜) 福島印 福島三郎右衛門(嘉永元年11月〜)
吉村印
吉村源太郎(天保14年7月〜嘉永2年3月まで) 渡辺印 渡辺源太郎(嘉永2年6月頃〜)


天保十四年(1843)から弘化三年(1846)十一月
名主印一つの時代・・・美人画

 寛政の改革時には、浮世絵に一般女性の名前などを特定して描くことは制限されたが、遊女については問題がなかった。しかし天保の改革では、風紀を乱すとして、逆に、遊女の絵の方が厳しい取り締まりの対象となった。

 改革の強い影響下にあったこの時期の美人画を見ると、色数が少なく、地味な衣装のものが多く見られる。古典になぞらえたものや、「教訓」「賢女」「童女」としているものも目立ち、制作者側も用心していたことがわかる。


天保十四年(1843)から弘化三年(1846)十一月
名主印一つの時代・・・風景画

 天保の改革の出版統制令により、浮世絵の価格は十六文まで、色数は七、八色までと定められた。続きものの大きな画面の絵も、三枚続きまでと制限された。しかし、風景そのものを描くことは禁じられなかったため、色数の少なさに目をつぶれば、風景画を出版することは可能であった。ちょうど、北斎や広重の風景画シリーズが人気を呼び、ベロリン藍が流行していた時期である。最も出版制限の厳しかった当時、風景画の出版で生きながらえた版元も多かったであろう。




日光山名所之内 素麺之瀧
「日光山名所之内 素麺之瀧」
渓斎英泉


天保十四年(1843)から弘化三年(1846)十一月
名主印一つの時代・・・苦心の役者絵

 


源氏雲浮世画合 松風  天保十三年六月、一連の出版統制令によって、浮世絵に役者の似顔絵を描くことや、役者名・紋所などを記すことが禁止された。さらに、人気役者五代目市川海老蔵(七代目市川団十郎のこと)が、ぜいたくを咎められて江戸を追放された。芝居小屋そのものも、前年に江戸の中心部から離れた場所に移転させられていた。江戸の庶民の愛する歌舞伎は、このように大打撃を受けたが、天保の改革の推進者である水野忠邦が罷免されると、再び役者絵風のものも描かれ始める。しかし、絵師や版元はかなり遠慮していたらしく、この時期には、歌舞伎の舞台に取材したことがわかりづらいものや、はっきりと役者の似顔絵と判断できないもの、あるいは古典になぞらえたものなど、カムフラージュしたものが多い。
「源氏雲浮世画合 松風」
歌川国芳


『里すゞめねぐらの仮宿』と渡辺庄右衛門

 歌川国芳画の三枚続きの作品『里すゞめねぐらの仮宿』は、弘化二年(1845)の暮に焼失して、他の場所で仮営業していた遊廓の吉原に取材している。天保の改革の出版統制令により、浮世絵に遊女を描くことは禁じられたが、そのため、遊女をはじめ人物はすべて雀に描き替えられている。雀に描き替えたのは、吉原雀という、吉原の客を意味する言葉を当て込んでのことでもある。

 この絵の改印は、「渡」の字の丸印で、「改」を行ったのが渡辺庄右衛門という名主であることがわかるが、この渡辺に関して、弘化三年閏五月、隠密廻りが南町奉行在任中の遠山左衛門尉(遠山の金さん)宛に調書を提出していた。調書では、ここ数年渡辺本人は病んでおり、「改」は代理で息子が行っていたこと、この息子は禁令に障るような絵であっても見逃し、版元の希望する場所に改印を押していたため、版元たちは、わざわざ渡辺の「改」の番を待って「改」を受けていたことなどが調べられていた。実際に、役者の似顔絵風の絵が渡辺の「改」で出版され、『里すゞめねぐらの仮宿』でも、着物の紋所に改印が押されている。この調書が提出されてまもなく、渡辺は免職となった。

 

里すゞめねぐらの仮宿
「里すゞめねぐらの仮宿」 歌川国芳


弘化三年(1846)十二月から嘉永六年(1853)十二月
名主印二つの時代・・・
三代目豊国の工夫と戯画風の役者絵

 名主印が一つから二つに増える弘化三年十二月以降、役者絵が復活してくる。翌四年正月の演目に取材したと分かる作品もあり、出版統制令のゆるみが、作品からも見て取れる。ただし、絵師たちは、まだまだ用心し、お咎めを受けないよう逃げ道を用意していたらしい。三代目歌川豊国の場合は、似顔絵の作品に記したサインに、(自ら率先して描いたのではなく)版元の求めに応じて描いたという意味の「梓元乃応需」を書き添えていることが指摘されており、また、歌川国芳の方は、役者の似顔絵を壁のいたずら書き風に見せたり、あるいは人間ではないもの、たとえば魚や亀や道具類に書き替えていることが知られている。

 なお、戯画風の役者絵については、役者絵が復活してきた弘化四年から翌嘉永元年頃のものが量的に多いため、このようなものが、改革との関わりの中で処罰をまぬがれる工夫として制作されたことは確かである。それが却って、新しいタイプの役者絵として人気を呼んだのだろう。しかし、実は国芳は、改革によって役者絵が弾圧を受ける以前にも役者の顔を猫などに描き替えることがあった。そのため、国芳の戯画風役者絵については、改革によってその制作に拍車がかかったが、仮に改革がなくとも、いずれは流行していたであろうといわれている。

「猫のせかい」
「猫のせかい」
歌川芳艶


シタ売

 嘉永三年から五年(1850〜52)頃に制作された役者絵の一部には、「シタ売(賣)」と読める楕円の印が見られる。「シタ売」という言葉は、飾りとして店先に釣るのではなく、下に積み重ねてなるべく人目につかないように売るという意味であるが、この印は、嘉永三年から五年の間に制作された役者絵全てに見られるというわけではない。この印が押された理由については、長らく、手をあまりかけていない安売りの絵であるから(飾るには及ばない)と考えられてきたが、最近では、売り方を自制させるための目印であること、さらに「シタ売」とされたものの方が、実際には豪華であることが指摘されている。しかし、それ以前より役者絵が復活しているにもかかわらず、なぜ嘉永三年になり、わざわざこのような印が押されるようになったのであろうか。

 嘉永三年の歌舞伎界の大きな出来事といえば、同年三月に、五代目市川海老蔵(七代目市川団十郎のこと)が、江戸に戻ってきたことであった。五代目海老蔵は、ぜいたくな生活が咎められ、天保十三年(1842)六月に江戸から追放されていた。この海老蔵の江戸帰還が、「シタ売」のきっかけの一つとなったのではないだろうか。「シタ売」とされた絵を見ると、確かに海老蔵を描いたものが多く、たとえば役者東海道と呼ばれるシリーズでは、シリーズ中海老蔵とその他ごく一部の役者のみが「シタ売」とされていたりする。しかし、一方で、海老蔵が出演しない演目の絵であっても「シタ売」となっている場合もある。「シタ売」にも何か基準があったのだと思われるが、今ひとつ、はっきりしない。


弘化三年(1846)十二月から嘉永六年(1853)十二月
名主印二つの時代・・・国芳の戯画

 歌川国芳の作品には戯画風のものが多いが、特に弘化・嘉永期(1844〜54)のものが目を引く。もちろん、当時の庶民が、どこかほのぼのとする国芳の戯画を好んだということも、その理由なのであろうが、もう一つの大きな理由として、改革により、遊女の美人画と役者絵が禁じられたことがあげられよう。

 『市中取締類集』という天保の改革に関する史料には、国芳に関する調書が納められている。この調書は、嘉永六年(1853)八月に提出されているが、それは、同年六月に出版された『浮世又平名画奇特』という国芳の絵について、庶民の間で将軍のことを描いたという風評が立ったことがきっかけであった。

 その調書によると、国芳は、改革によって遊女や役者の絵が禁じられたため奇怪な絵を描くようになり、それが庶民の間であれこれ好んで判じられたため、そのようなものの注文が多くなったこと、その後再び役者絵を描くようになったが、三代目豊国の作品には及ばず注文が減り、また新工夫の変わった絵を描くようになって世間で風評がたったこと、国芳は、弟子も多く抱えていたが闊達な人物で、手間賃よりも心意気で仕事を引き受けるタイプの人柄であったこと、絵柄は梅屋(狂歌師)に相談していたこと、そして、妻子はそれなりの身なりをしていたが、自身は無頓着で、手間賃も弟子達に配分していたことなどが記されている。

 結局隠密廻りは、国芳に怪しい点などを見出すことはできなかったが、この調書によって、国芳の人柄や、当時の人々の国芳の絵に対する評価などを知ることができる。

 

朝比奈小人島遊
「朝比奈小人島遊」 歌川国芳


改掛名主の在任期間(『市中取締類従』より 湯浅淑子作成)
改掛名主の在任期間


ホームページへ戻る