講演レビュー

01.25(THU)那覇

浅田 次郎さん

お米の話

日本の歴史はお米とともにありました

お米は日本で昔から食べられていまして、藩政時代には給料そのもの、お国の国力そのものでした。江戸時代の侍は本当に給料をお米でもらっており、上級の侍は給料分のお米が取れる領地をもらい、年貢を取って生活していました。最も多かった石高は加賀前田藩の百万石。これは百万石の米が取れる領地を治める殿様という意味でもありました。家格も幕臣の給料も全てお米が基準とされるなど、人々の生活に密着していました。廃藩置県を行ったとき、最も人口が多かったのは実は新潟県。新潟は大変多くお米が取れるため、多くの大名が存在し、律令制に基づいて県政を敷いてみたら圧倒的に人口が多かった。それだけお米には人口を増やし、人の命をつなぐ力があったということなのです。

社会と文化を育んだお米

江戸幕府の御家人「御徒」の給料は七十俵五人扶持でした。五人扶持とは5人の家族を食べさせていけるという意味で、1人1日5合を目安に毎月もらう給料でした。それとは別に年3回に分けて70俵もらう。この給与体系は私たちの月給とボーナスによく似ています。外国ではボーナスは会社の業績が特に上がったときに賞与として支給されるが、日本ではある程度生活給として保障されている。江戸時代の給与体系が今の生活に生きている例です。

米作が普及したのは仏教が伝来した天武朝ではないかと考えています。仏教で肉食が禁止され、それをカバーするだけのカロリーが必要となったとき、小さな面積で最も合理的に大量のカロリーが取れるものがお米だったわけです。

江戸時代には江戸患いという病気がありました。参勤交代で江戸にいる侍が体調を崩し、お国に戻ると治る。江戸の風土病だと思われていましたが、実はお米の偏食によるビタミンB1不足、脚気の症状でした。日清戦争では白米を支給され食べ続けた兵隊たちが、脚気による心臓病でたくさん亡くなりました。背景には1日6合白米を食べさせるという徴兵令の条件がありました。江戸時代の侍の給料1日5合より1合多い6合。これは雑穀を食べていた当時の農民にとってとてもいい条件だったのです。兵士が1日6合食べたという証拠は4合炊きの飯ごうに残されています。これは一度に4合炊いて朝と昼の分とか、ペアで1食分の飯と汁を炊くという使い方をします。この飯ごうは明治31年に陸軍が採用して以来、一度も改良されていない。まさにものを作る人の手本となる製品です。

命を「コメ」るお米

現在お米は毒のように言われることもあります。お米の生産量も消費量も激減しています。医学的根拠は理解していますが、長い歴史とともに培ったお米の文化は決して捨ててはならないと思います。これからも存分にお米を食べて、その分歩いてカロリーを消費する生活に変えていこうじゃありませんか。米という言葉の語源は分かっていませんが、何かを「込める」という意味からきたと思っています。何を込めるのか。命を込めるのですよ。自分の命、人の命をこめたお米ということを忘れずに、「いただきます」「ごちそうさま」と言って、美味しいお米を食べましょう。