安藤典莉子選手のインタビュー

JTマーヴェラスのウイングスパイカー、安藤典莉子選手のインタビューです。

自分をしっかり持ってチームを引っ張る

平日は他の習いごとをしていましたよ(笑)

バレーボールを始めたのは、姉たちがきっかけです。私は3姉妹の末っ子なんですけど、2人は、私が4歳のときにはすでにバレーボールをしていました。それで、4歳のころから私も体育館について行ってたんです。だから、バレーボールクラブに入部できる小学校1年生のときには、当たり前のように入部して本格的にバレーボールを始めていました。実は、私の父と母もバレーボールをしていたんです。父は結婚後もクラブチームなどでバレーボールを続けていて、母はママさんバレーで地域の試合に出たりしていました。だから、トップレベルではないけど、私の家族はバレーボールファミリーでしたね。

バレーボールを始めたばかりのころは、ボールが重たすぎて、普通のボールだとサーブが入りませんでした。だから、軽いカラーボールで練習していて、「そのボールでサーブが入るまでは、普通のボールでサーブを打ってはダメ」と言われながら練習をしていたことを覚えています。

入部したクラブチームは、全国大会に出場したことはなく、決して全国的に強いチームではなかったです。地区大会では優勝していて、次の県大会に出場できるかどうかというくらいのレベルでした。他のVリーグの選手たちと話すと、「小学生のころから毎日夜遅くまで練習していた」とか、「土曜日と日曜日は必ず練習試合があった」とか聞くんですけど、私がいたチームの練習は、土曜日と日曜日だけでした。だから平日は他の習いごとをしていましたよ(笑)。ただ、AチームからDチームまでチームが4つあるぐらい、人数は多かったですね。やはりAチームが一番強くて、小学校6年生が多くプレーしていたのに対し、Dチームは低学年が多かったです。もちろん、私が最初に入ったのはDチームでしたね。

私が初めてAチームに入ったのは、小学校4年生のときです。今でこそ身長は高いんですけど、当時は低かったので、レシーブ役でバックコートに入っていました。小学校5年生くらいまでは、ほぼ同じポジションでしたね。小学校6年生のころには、身長が他の同級生と同じぐらいの154cmまで伸びたので、レシーブだけの出場に加えて、たまにスパイクを打つ役割を担うときもありました。チームの中には、私よりも背が高くてスパイクを打てる子がいたので、基本はその子にボールを集めて、その子が打てない状況になると、私にボールが上がるという感じです。そんな中、目標にしていた県大会に出場できたことが小学校の中で、一番思い出に残っているできごとですかね。でも、その大会では勝てなかったという記憶がありますが(笑)。

大変だけどいい経験ができているな

中学校は地元の学校に進学して、当たり前のようにバレーボール部に入部しました。それしか道はないと思っていたので。ただ、私の中学校のバレーボール部は、1年生から3年生まで合わせて部員が10人いるかいないかぐらいだったんですよ。監督は、バレーボールの経験がそこまであったわけではないので、練習は自分たちでやっていました。そんな中、3年生のときに転勤で他の学校から怖い先生がやって来たんです(笑)。バレーボールの監督として実績のある先生だったので、まず最初に休みの日に部員全員呼び出されて、「県大会に出場しよう」と言われたことをすごく覚えています。そして、次の日からすぐに練習が始まりました。強豪校でもなかったので、他の部活との兼ね合いもあって、平日は1日おきに体育館を使って、土曜日と日曜日は練習試合をするというサイクルでした。体育館を使えない日は、外で練習をしたり、体育館のステージが空いているのでステージでできることをやったりしていました。先生はすごく熱血な方で、怒られることも多かったんですけど、技術をしっかりと丁寧に教えてくれました。先生の指導どおりにプレーをすると上手くいくので、選手たちも「ああ、こうすればいいんだ」という風に、どんどんいろいろなことを吸収していきましたね。練習内容も初めてやることばかりだったので、全てのことが新鮮でした。それに、練習試合が増え、他のチームを見る機会も増えるにつれて、いろいろなバレーボールスタイルを見ることができたので、当時は、「大変だけどいい経験ができているな」と思っていました。


私自身は、中学校2年生から3年生にかけて身長が一気に170cmまで伸びたので、チームの状況に合わせてセンターをしたりレフトをしたりしていました。そして、先生が来て約3カ月が経ったころに、大会に出場しました。それまで弱いチームだったのでシード権はないですし、地区大会から出場して一戦一戦勝ち上がっていったんです。そして、県大会への出場を果たしたんですよ。あのときは本当に嬉しくて、みんなで泣いて喜んだことをすごく鮮明に覚えています。ただ、県大会は、1回戦を勝ったような勝てなかったような。そんな感じで早々に負けて、中学校のバレーボール生活は終わりました。

一番成績が良かったみたいで、それは嬉しかったですね

中学校3年生の夏の大会が終わってから「選ばれないと思うけどJOCの練習に行ってこい」と先生に言われて、練習に参加したことがありました。結果は案の定2次選考で落ちて帰ってきましたね(笑)。ただ、後々聞いた話によると、身体測定で、ジャンプ力などをいろいろ測ったりしたんですけど、一番成績が良かったみたいで、それは嬉しかったですね。ただ、初めて県内のバレーボールが上手な選手たちと一緒に練習をして、「全然レベルが違うな」と思いました。私は、中学校を卒業するころには身長が175cmあったんですけど、同じくらいの身長の選手でも、スパイクを上から打ってくるし、打つだけじゃなくていろいろなことができるし、本当にすごいと思いました。JOCでの練習経験は、私にとってとてもいい勉強になったと思います。

その後、中学校のバレーボール部を引退してから卒業するまでの期間は、近くのクラブチームに通って練習していました。そして、監督の奥さんが岡津高校(現・横浜緑園総合高校/神奈川県横浜市)の監督をしていたこともあり、そのまま入部が決まりました。その他にも神奈川県内の強豪校から誘われていたので、悩んだ時期もあったんですけど、最後は岡津高校に進学することに決めました。高校には当時、2学年上の知り合いの先輩たちもいたし、岡津高校を強くするという思いのもと一生懸命頑張っていたので、チームの状況も自分に合っていると思ったんです。

サイドじゃないとダメとかこだわりはなかったです

高校では、1年生の夏から試合に出ていたんですけど、最初に任されたポジションはライトでした。当時の岡津高校は、長身の選手が多かったのでブロックが武器だったんですけど、レシーブもできていました。そして、速いトス回しのコンビバレーをする攻撃型のチームだったと思います。それぞれの役割は明確にされていましたし、私は1年生でとにかく思いっきりやればいいからと周りからは言われていたので、とてもプレーしやすかったです。

私たちの目標は、神奈川県大会でベスト8まで進めば出場できる「関東大会」で戦うこと。そして、優勝と準優勝の高校が出場できる「春高バレー」も目指していました。結果は関東大会には出場できたけど、春高バレーは県予選で強豪校と競りながらも最後は負けてしまい、出場できませんでした。私はまだ1年生で、それまで実力も何もなく無我夢中でプレーしていたんですけど、先輩たちは最後の大会で思い入れが強かったと思うし、試合が始まる前から泣きそうでした。2学年上の先輩の中には、小学生のときに一緒にやっていた先輩も何人かいたので、また高校で一緒にコートに立てたことはとてもうれしかったんですけど、もう少しだけ長く一緒にプレーしたかったですね。

私の高校は、もともと強豪高校ではなかったので、毎日びっしり練習するわけでもなく、ほどほどに練習する感じでした。3年生が引退してから部員は10人ぐらいになったのですが、2年生のときも1年生のときと同様、関東大会までは出場できたけれど、全国大会には出場できませんでした。でも、高校生活最後の年となる3年生のときは、関東大会神奈川県予選で、それまで果たせなかったベスト8の壁を破って初めて3位になり、関東大会出場の切符を手にしました。私自身は、基本的にはサイドでプレーしていたんですけど、当時身長が178cmあったので、1ローテーションだけセンターをやったりと、相手に合わせてプレーしていました。サイドじゃないとダメとかこだわりはなかったですね。監督がやれと言えばそのポジションをやるといった感じでした(笑)。

そして、その神奈川県大会での私のプレーが、V・プレミアリーグのチームの方の目に留まり、誘っていただいたんです。高校の監督から初めて聞いたときは、「声を掛ける人を間違えていませんか?」と言ったことを覚えています(笑)。もともとバレーボール選手になることは、小さいころからの夢ではあったんです。ただ、周りを見てみると、V・プレミアリーグのチームから声を掛けてもらう選手は、強豪校の選手だったり、テレビで取材を受けたりする選手ばかりだったので、私は高校卒業後は他の道に進もうと思っていました。それで、大学に進学しようと考えていた時期に声を掛けてもらったんですけど、親から「大学はいつでも行ける。大学に行ってからまた声を掛けてもらえる保証はないし、今のノリを選んでくれているんだから」と言われたんです。それをきっかけに、V・プレミアリーグのチームへ入部することを決めました。誰もが進める道ではないですし、自分が行きたいと思って行けるところではないので、親が言ってくれた言葉は私の中で大きかったですね。

本当にコートが明るすぎて、印象はそれしかなかったですね

入部1年目は、先輩たちとの実力の差もありましたが、細い体で筋力もなかったので、日々の練習に励みながら、体力作りにも励んでいました。試合ではベンチに入れなかったので、ビデオ係を担当していました。そのときに、アナリストの方から「いろいろな選手の特徴や動きを見るのも勉強になるから」と声を掛けていただいたんです。だから、ビデオ係だった1年間は、いろいろなバレーボールを学び、大きな経験となりました。1年目は、途中から出場ばかりで、ちゃんと試合に出場したのは、2年目の黒鷲旗でした。チーム事情もあって、ライトでほぼ全試合に出場したんです。先輩たちに助けられながらではあったんですけど本当に楽しかったです。初めてメインで出場した大会だったので、印象深い大会になりました。そして、2年目に初めてV・プレミアリーグのコートに立ちました。本当にコートが明るすぎて、印象はそれしかなかったですね。試合が進むにつれて段々慣れてきて、「勝ちたい」という思いが湧きあがってきたことを覚えています。途中で足がつったんですけどね(笑)。

今度こそ勝ちたい

V・プレミアリーグでの3年間を終えて、次は、V・チャレンジリーグのチームに移籍しました。そこでは、センターとしてプレーし、2年目にはブロック賞を獲得したりもしたのですが、そこでの3年目が終わったときに、正直疲れを感じてしまったんです。毎年、V・プレミアリーグを目指してV・チャレンジマッチに挑んできたんですけど、そこで勝つことができず、3年目が終わったときに、ここからもう一度モチベーションを上げることが難しいと思ったんです。それで、引退という形でチームを離れました。ただ、また声をかけてくださるチームがあれば、そのときは考えようと思いながら働いていました。そして、引退してから1年後ぐらいにJTマーヴェラスに声を掛けていただいたんです。以前のチームにいたとき、V・チャレンジマッチに挑戦して負けていたので、V・プレミアリーグ昇格を目指すJTマーヴェラスに声を掛けていただいたときには、もう一度V・チャレンジマッチに挑戦して、今度こそ勝ちたいと思い入部を決めました。それに、「もう1回挑戦しろ」と言われているみたいだなと思ったんです。

JTマーヴェラスの勝利に貢献したい

入部するまでのJTマーヴェラスのイメージは、伝統あるチームですごい選手がたくさんいるというイメージでしたが、私が入部したころは、若い選手が多く、新体制でスタートする時期だったので、どのようなチームになるのかなと思っていました。そういった中で、昨シーズンを終えて思ったことは、他の選手よりもV・チャレンジリーグやV・チャレンジマッチを経験していた分、「もっとアドバイスをすればよかったな」ということ。もちろん、私の経験をチームに生かせたらと、少なからず周りの選手たちと話したりもしていたのですが、私自身がVリーグに復帰して1年目だったので、どちらかというと自分の体力を取り戻すことに必死だったと思います。何かを発言するからには、私自身ができていないと言えないなと思っていた部分もあったので、自分のことで精いっぱいだったなと。復帰して2年目となる今シーズンは、自分のことだけをしていてはダメだと思っています。年齢的にもチームを引っ張っていかなければいけないと思うので、下の子たちが私を見てついて来てくれるように、自分をしっかり持って、行動で示し、チームを引っ張っていこうと思っています。

Vリーグに入ったばかりのころは、“何年間は頑張ろう”とか自分の中で決めてバレーボールをやっていたんですけど、そうすると、自分の中で目標の年月が経ったときに勝手にやり切った感が出てきたんですよ。それで一度引退したので、これからは、そうならないようにあまり先のことまで考えず、1年ごとにいろいろと考えようと思っています。まず今シーズンは、チームが勝つことを目標にチームを引っ張りながら、“今の自分は何をやらなければいけなのか”ということを考えています。そして、1年が終わったときに、また次の1年を考えようと思っています。ただ、そう思いながらも先のことを考えるときもあるんですけどね(笑)。JTマーヴェラスでレギュラーに定着してチームの勝利に貢献したいという思いもありますし、現役でいる以上、できれば全日本に呼ばれたいという思いもあります。知さん(吉原知子監督)には「まだ若い」とよく言われるんですけど、この歳になるとVリーガーとしてのバレーボール人生は先の方が短いと思うので、しっかり考えてバレーボールに取り組んでいきたいと思います。

※本記事は2015年8月時点のインタビューに基づいたものです。

JTマーヴェラス