小幡真子選手のインタビュー

JTマーヴェラスのリベロ、小幡真子選手のインタビューです。

お手本となれるような素晴らしい人を目指しています

視野は広く持っていた

バレーボールを始めたのは、小学校4年生からです。私の通っていた小学校にはバレーボール部とバドミントン部しかなかったので、それなら「バレーボールでしょ!」と思い入部しました。私の母が、今でいう久光製薬スプリングスでプレーしていたので、幼いころからバレーボールの話を聞いていて身近なスポーツだったということも始めた理由ですね。

チームのメンバーは身長が低かったので、みんなで拾ってつなぐスタイルで戦っていました。実力は、天草市(熊本県天草市)で優勝できるかできないかぐらい。決して強豪校ではなかったと思います。ただ、監督は厳しい指導者として有名でした。週末は他県に遠征することもよくあり、九州は全県行きましたよ。熊本県よりも強く、レベルの高い九州のチームを見ることができたので、視野は広く持っていたと思います。練習は辛いことも多かったんですけど、他県の強豪校を見ていると「あんなに上手な人があれだけ怒られている。私は、自分のチームの中だけで悩んでいてはダメだな」と思っていました。

監督の指導は厳しかったんですけど、オンとオフのめりはりがしっかりとある方だったので、オフのときは楽しい学校の先生、オンのときはとことんバレーボールを指導する厳しい監督という感じでした。私は、よく周りから「オンとオフの切り替えがしっかりしているね」と言われるんですけど、この監督の影響が大きいと思います。挨拶や掃除など私生活の部分でも厳しい指導を受けていたので、バレーボールの上手い下手に関わらず、人として何ができていなければならないのかを教わりました。そういうことを小学生のころから徹底されていたから、今の自分があると思うし、先生のおかげだと思っています。

チームがあっての自分だし自分があってのチーム

中学校でもバレーボール部に入部しました。私の入学した中学校には5つの小学校からの生徒が集まっていたのですが、その中で一番強い小学校のバレーボール部は、九州大会に出場するほどの強豪校でした。だから、その子たちと一緒にバレーボールをできることを楽しみにしていました。

監督は小学校のときと同じでバレーボールだけではなく、私生活についても厳しく指導する方で、私の人生の中で大きな影響を受けた監督でもあります。もちろん、練習も厳しく取り組んでいたので、平日は練習、週末は遠征試合と、中学校3年間はバレーボール漬けでした。

私たちの代が1年生のとき、チームはまだまだ力不足で、県大会では2回戦負け。2年生のときは準々決勝で優勝候補の中学校を破ったものの、準決勝で負けてしまい、九州大会には出場できませんでした。ただ、着実に力が付いてきているなという手応えは感じていました。私自身はライトを任されていたんですが、当時から身長は低い方でしたね。周りの人から「よく飛ぶな」と言われてはいたのですが、身長が低いので私の役割はレシーブだと思っていました。もちろん、スパイクもいろいろと工夫したりして頑張ってはいたのですが、一番はディグ(スパイクレシーブ)などレシ-ブ面を頑張って、とにかく誰よりもハードワークすることを心掛けていました。

そして、中学校生活最後の大会では、九州大会出場を果たしました。九州大会でも勝利を重ねたのですが、“全国大会まであと1勝”というところで負けてしまいました。悔しかったものの、それなりの成績を残せたことで勝つためには何が必要なのかということを学べたし、その反面、勝つことの難しさも学んだ3年間だったと思います。そして、何より、3年間仲間と共に頑張ってきたからこそ成し遂げられた結果だったと思うので、改めてバレーボールはチームプレーであり、チームがあっての自分だし自分があってのチーム、人と人とのつながりが大切なスポーツなんだということを学んだと思います。

自分が一番輝けるのはリベロ

高校は、九州文化学園高校(長崎県佐世保市)に進みました。いくつかの高校から声を掛けていただいたんですけど、自分の直感で一番最初に声をかけていただいた高校に行こうと決めていて、それが九文(九州文化学園高校)だったんです。監督がわざわざ長崎から私の中学校まで来てくださり、お話をしたときに「この監督の下でバレーボールをしたい」と思えたことも決めた理由の一つでした。それに、地元を飛び出してみたいという思いもありました。親元を離れたかったわけではないけれど、何も分からない環境でバレーボールをして、より一層視野を広げたいと思っていたんです。

九文に入学してからの寮生活は、とても楽しかったですね。何事も当番制でいろいろと役割があったんですけど、九文は上下関係がそれほどなかったので、学年に関わらず全員で分担して取り組んでいました。厳しさの中にも優しさがあり、本当に楽しかったです。

バレーボールはというと、ライトの選手として声を掛けていただいたので、入部当初はライトの練習をしていました。ただ、監督からレシーブ力を高く評価してもらっていたので、その時々のチーム事情に合わせてリベロやライトで試合に出場していました。けれども、全国の強豪校のスパイカーと比べると、私はライトの選手としては通用しないなと思っていました。攻撃はもちろんですが、身長が低い分、ブロックも低いですしね。監督も私をリベロとして起用したそうでしたし、私自身、自分が一番輝けるのはリベロだと思い始めていたので、高校2年生からは本格的にリベロとしてプレーするようになりました。そして、インターハイでは3年間連続でベストリベロ賞を受賞したんです。とくに3年生のときに受賞できたのは本当に嬉しかったですね。通常は、優勝か準優勝のチームから個人賞の選手が選ばれるんですけど、私たちは3位でした。それでもベストリベロ賞に選ばれたので、すごく自信につながりました。

ただチームとしての成績は、3年間を通して常にベスト4か準優勝。一度も全国で優勝できませんでした。だから、高校を卒業するときは、心置きなく「次のステージでも頑張るぞ!」とは思えなかったですね。卒業後は、日本体育大学(東京都世田谷区)に入学することが決まっていたんですけど、高校で結果を出せていない分「大学で結果を出して高校の監督にすごいところを見せてやる!」という気持ちが強かったです。

チームへの思い、愛という部分では大学バレーボール界の誰にも負けない

日体(日本体育大学)のバレーボール部には、全国から選手が集まっていたので、毎日新鮮なできごとの連続でした。ただ、上下関係は厳しかったです。私からすると日々矛盾との戦いでもありました。もともと上下関係や年齢は気にせず、思っていることは言うタイプなので、生意気で有名だったと思います(笑)。

試合には1年生のころから出場していて、最高成績は4年生のときの全日本インカレ優勝です。バレーボール人生で初めてキャプテンを務めたので、チームや大会にかける思いはとても強かったです。大会ではベストリベロ賞を受賞したのですが、“リベロの中で私が一番”という思いはなかったですね。それよりも、キャプテンとしてチームのことを考えた時間やチームへの思い、愛という部分で大学バレーボール界の誰にも負けないと思っていました。どれだけチームに尽くせるか、応援してくださっている人たちに感謝の気持ちを持ってプレーするかが大事だと思っていたので、最後の大会で結果を出すことができてよかったと思っています。

選手全員が意見を言い合えるようなチームにしたい

大学卒業後は、一番に声を掛けていただいたJTマーヴェラスへの入部を決めました。理由はいくつかあるんですけど、私と同様、大卒の選手が複数人在籍していたことや、琴絵さん(井上琴絵選手)の存在も決め手の一つでした。大学までは、同じポジションにライバルという存在がいなかったので、いい経験になると思ったんです。あと、これは入部前の私の勝手なJTマーヴェラスの印象ではあるんですけど、チームの中で意見を言う選手が偏っているように見えたんです。だから、選手全員が意見を言い合えるようなチームにしたいなと思って、“私が行くしかない”と思ったんです(笑)。JTマーヴェラスの選手として初めてコートに立ったのは、入部初年度の「第64回 黒鷲旗全日本男女選抜バレーボール大会」でした。しかも、相手は、私の母校日体。これは運命だなって思いましたね。私が大学4年生のときのスターティングメンバーは、私以外は全員後輩でした。だから、つい最近まで一緒に戦ったり練習中に怒ったり、コート外では仲良く遊んだりしていた後輩が相手コートにいて、変な感じがしました。向こうのチームに入りたいなと思ったり(笑)。だけど、後輩たちに私が頑張っている姿を見せなきゃいけないと思ったし、根本監督(根本 研監督/日本体育大学監督)にも「今までありがとうございました。これからも頑張っていきます」という思いをプレーで見せなければいけないと意気込んで試合に挑みました。だけど、JTマーヴェラスの選手としてのデビュー戦ということもあったのか、地に足がつかない感じでプレーしていたことを覚えています。

入部2年目には新監督としてトモさん(吉原知子監督)がチームにきて、選手たちの意識は一気に変わりました。ただ、メンバーはほとんど変化がなかったので、“環境に慣れてしまわないように”ということは常に意識していました。試合には、琴絵さんがケガしていたということもあり、「2014/15V・チャレンジリーグⅠ」の開幕戦からスターティングメンバーとして出場させてもらいました。しかも、試合会場は私の地元熊本県。たくさんの知り合いが応援に駆け付けてくれていたこともあり、地元で試合をしていることを全身で感じながら自分の色を出してプレーできたと思います。ただ、やはり最初は他のメンバーとの連携が合わなかったり琴絵さんと比べられたりと苦労することも多かったなと思います。だけど、めげることなく自分を信じて一生懸命取り組んでいたら、徐々に周りの選手との連携もかみ合ってきて、自信もついていきました。そこからは、より一層声を出したり意見を言ったり、周りの選手も意見を言えるような環境づくりを心がけて取り組むようにしていました。そして、V・プレミアリーグへの復帰を果たせたし、ここまでの2年間はチームとしても個人としても充実した時間を過ごせていると思います。

その時々でやれることがある

チームとしては、V・プレミアリーグ優勝を目標に掲げて日々練習に取り組んでいるんですけど、口で言うことは簡単です。目標に向かって実際に行動できる人間というのは少ないと思うんですね。だけど、私たちはそれをやらなければいけないですし、甘えていてはいけない。勝利を重ねて目標を達成しないと応援してくれている方々に対して申し訳ないと思うんです。「目の色を変えてやらないとまた降格する」という危機感を持ってやっていかなければならないと思っています。

2016年9月、私はケガをしていましたが、どのような状況になってもその時々でやれることがあると思いました。リハビリに専念していたとき、これから先、バレーボールをやっていくうえで身体をどこか傷めたときにどうすればよくなるかを、アスリートとして私自身が理解しておかなければならないと思いました。そこで、筋肉について勉強を始めたんです。父が整体師なので、時々教わりながら勉強しています。こういったことは、今回のケガがきっかけで始めたことでもあるので、何事にも無駄なことはないんだと思っています。私自身はバレーボール選手というよりも一人の人間としてお手本になれるようになりたいと思っています。バレーボールファンの方々だけではなく、いろいろな人たちのお手本になれる人が“応援したくなるような選手”だったり、“感動を与えられる選手”になれると思うんです。そういう選手になりたいので、一人の人間としてお手本となれるような素晴らしい人を目指しています。

バレーボールの目標は、2020年の東京五輪への出場、チームとしてはV・プレミアリーグ優勝を果たすために強いJTマーヴェラスを目指したいと思います。そして、最終的にはVリーグのレベルを上げたいですね。「何を言っているんだよ」って思われるかもしれないですけど(笑)、Vリーグのレベルが上がらないことには、日本代表のレベルも上がらないと思うんです。だから、JTマーヴェラスだけではなく、他のチームの選手たちとも連携してレベルアップを図り、Vリーグを盛り上げていきたいと思っています。

※本記事は2016年9月時点のインタビューに基づいたものです。

JTマーヴェラス