中村亜友美選手のインタビュー

JTマーヴェラスのウイングスパイカー、中村亜友美選手のインタビューです。

夢や希望を与えられる選手でなければならない

兄が言い出さなかったら、私は柔道をしていたと思います

バレーボールを始めたのは、小学校1年生のときです。引っ越しがきっかけだったんですよ。幼稚園のころは水泳をしていて、引っ越し先でも水泳教室を探していたんですけど、そのときに、近くの体育館で柔道とバレーボールのクラブがあるということを耳にしたんです。もともと父が柔道をしていたということもあり、家族みんなで体育館へ見学に行くことになったんですよ。まずは柔道を見に行ったのですが、どこからともなくバレーボールの練習の音が聞こえてきて。それでバレーボールの練習も見に行ったんです。そうしたら兄が「僕はバレーボールがしたい、柔道はいやだ」と言い出して。柔道をしている父が、よく痣を作って帰って来るのを見ていた兄は、もともと柔道を怖がっていたんです。それで、バレーボールをやりたいって言ったんですけど、それがきっかけで「じゃー、私もバレーボールをする!」って(笑)。多分、兄が言い出さなかったら、私は柔道をしていたと思います。

最初は、ボール拾いから始めて、その後は球慣らしや1人遊びをしていました。当時は、“楽しい”とか“楽しくない”とかは全然分からなくて、お兄ちゃんが練習に行くから、私も行くという感じでバレーボールをやっていましたね。チームは、男子が全国で優勝するほどの強いチームで、女子は、福岡県でベスト4に入るくらいで。そこそこ強かったと思います。監督の指導は厳しかったですね。ただ、1、2年生のころは、まだ幼いから厳しさが分からなくて、みんなができるから私もそれをやるという感じでした。それが、3年生くらいから試合に出させてもらうようになって、“楽しい”とか“楽しくない”とかの感情が芽生えてくると、バレーボールが嫌になっちゃって……。親とも相談をして、1回バレーボールから離れたんですよ。だけど、体は動かしたかったので、また水泳を始めたんです。そして、1年後くらいに、またバレーボールがやりたいという想いが生まれて、4年生の2学期くらいからバレーボールに復帰したんです。だけど、5年生の2学期くらいには、またバレーボールから離れたんですけどね(笑)。

離れてからは、また水泳をしたり、バドミントンをしたりしていました。その間に、兄が全国でも上位に入る中学校のバレーボールチームに入部したんです。そこで、たまたま高校の女子と練習試合をすることになり、その相手が誠英(誠英高校/山口県防府市)だったんです。親から「応援に行くからついてきなさい。どんなバレーボール選手がいるのかを見なさい」と言われて、見に行くことにしたんです。そこで、当時の誠英高校の監督だった河村さん(河村 充さん/前誠英高校監督)から声を掛けられたんです。当時、私の身長は172cmあったので、目に留まったんですね。バレーボールをしていたことを話すと、そこからどんどん話が進んじゃって。結局、中学校から山口県に来ないかと言われたんですよ。もともと中学校では、バレーボールをする気がなくて、違う部活に入部しようと考えていたんです。だけど、親が「携帯を買ってあげる」と言うので、山口県行きを決めました(笑)。

本当にきつくてたくさん泣いていましたね

中学校は、防府市立佐波中学校(山口県防府市)に入学しました。最初は中学校のバレーボール部には入部せず、学校が終わったら自転車で誠英に行って練習に参加していました。練習が終わったら、先生が迎えに来てくれて一緒に帰るという生活でしたね。実家には年に2回ほど帰れるかどうか。本当にきつくて、たくさん泣いていましたね。

だけど、徐々に生活にも慣れて、2年生の終わりくらいから卒業までは、中学校のバレーボール部に入部して、平日は中学校で練習していました。ただ、中学校のバレーボールチームは、市内でベスト4くらいのチームで、決して強くはなかったですね。だから、試合では、私がレシーブをして、前衛でも後衛でも上がったボールを打ってみたいな感じでした(笑)。中学校時代は輝かしい成績は残していないですけど、1回だけ山口県1位のチームに、練習試合で勝ちそうになったことがあります。そのときはみんな、キャーキャー喜んでいましたね(笑)。

「JOCジュニアオリンピックカップ」の山口県選抜には、1年生のころから選ばれていました。だけど、全国の選抜には3年間で1度も選ばれたことがなかったです。だから、「なんで私は親元を離れてバレーボールをしているんだろうな」と思うときもありました。もともと「誠英に行きたい」とか、「強豪校に行ってバレーボールがしたい」などと思っていたわけではなかったので。でも、「JOCジュニアオリンピックカップ」の山口県選抜で共に戦ったメンバーたちも誠英に入ることが決まっていたので、「選抜では取れなかった日本一を、高校で目指そう!」と、みんなで話していたんです。その中には、麻依(奥村麻依選手)もいたんですよ。高校は寮生活だったので、クラスも帰ってからも一緒。授業中も、放課後の練習も、夜寝るときも常に一緒でした。だから、麻依をはじめ、当時のチームメートは本当に家族以上の関係です。本当に。でも、その中でも麻依は特にかな。あんな感じだけど、意外と頼りになるんですよ(笑)。面と向かっては言えないですけどね。麻依もそういうことは、私に面と向かって言えないと思いますけどね(笑)。

監督のひと言って、本当に大きいなと思いました

誠英では、1年生のころから試合に出場していました。私以外にも、1年生から麻依ともう1人同級生がレギュラーで出場していました。そして、2年生の春高バレーのときには、ほぼ私たちの学年の選手がレギュラーでした。そのときの準決勝の九文(九州文化学園高校/長崎県佐世保市)戦はとても印象に残っています。事実上の決勝戦と言われていましたが、それまで、練習試合では九文にほとんど負けていたんです。下馬評でも九文有利となっていましたしね。試合前は、みんな緊張していたけど、「よし、やろう」と言い合って士気を高めて挑みました。だけど、内心はみんな、私も含めて勝つのは難しいと思っていたと思います。試合は、最初はリードしていたけど逆転されてしまって、第1セットを数点差で落としたんですよね。そしたら監督にも怒られて……。私たちは、怒られて“やばい”という気持ちと、やっぱり“勝ちたい”という気持ちの中、第2セット目に挑んだんですよ。だけど、序盤からすごい点差をつけられて、早々に2回のタイムアウトを取ったんです。そこで、気持ちを切り替えてなんとか追いついたら、今度は、九文がタイムアウトを取ったんです。そのときベンチに戻ったら監督が(最後のタイムアウトのときに負けていたので、そのまま終わってしまうかと思い)「お前らが戻ってこないで負けて終わるのかと思ったけど、よく戻ってきた」と言ったんです。いつも厳しい監督からそんなことを言われたので、試合中なのにみんな「うわー」と涙が出てきそうになったんですよ。それでチームが団結しましたね。第2セットを取り返して、第3セットは、シーソーゲームだったんですけど最終的に勝つことができたんです。監督のひと言って、本当に大きいと思いました。優勝した試合よりも、その試合が一番印象に残っています。当時の九文には、峯村(峯村沙紀選手/東レアローズ)がいたんですけど、今でも峯村と「やっぱりあの試合が一番印象に残っているよね」と話します。バレーボールで壁に当たったときは、その試合のDVDを見ると、「もう1回頑張ろう」と思いますね。

みんなに「バカになってやろうよ!」と伝えたんですよね(笑)

でも、その後のインターハイでは、麻依のケガや私のケガなどいろいろなことが重なって、優勝できませんでした。監督からも厳しい言葉でげきを飛ばされたりもしましたね。でも、もう一度ゼロからチームを立て直し、その結果、国体で優勝を果たせたんです。そして、3年生の国体では、主将として連覇に挑みました。決勝まで勝ち進んだんですけど、決勝の相手は、当時圧倒的に強かった東龍(東九州龍谷高校/大分県中津市)だったんです。みんな、「勝てるのかな……」と不安に感じている中、決勝戦前日のミーティングで、監督は対策をしなかったんですよ。代わりに、翌日の決勝戦で勝っても負けても引退となる私たち3年生に、初めて出会ったときの印象を1人ずつ言っていったんです。例えば麻依には、「麻依は、中学生のときに、『誠英に来いよ』って誘いに行ったら、お前は男子と遊びよったな」とか、面白おかしく1人ずつの印象を話してくれて(笑)。みんな笑っていましたね。そして最後に「よし、明日はぼちぼちやろう」と言われて、部屋から出ていったんです。みんな「あれ? ミーティングは?」「作戦を立てなくていいの?」と思ったんですけど、「いや、もうここまで来たら『思いっきりやれ』ってことでしょう」と選手同士で話したことを覚えています。だけどやっぱり不安もあったんですけどね。

そして、決勝当日の会場に行くバスの中で、監督がいろいろとしゃべっているときに、いつも命令口調の監督が「みんなは、俺について来てくれるか?」と私たちに尋ねてきたんです。みんなびっくりしたんですけど、「もちろんついて行きます!」と言ったら、「それなら、1つだけ作戦を言うから、それをやってくれるか」と。それ以降の話も全部私たちの意思を確認するかのように尋ねる感じだったんです。そして、試合中は、全然怒りもしないし、とにかく「お前ら暴れ馬みたいに行けー」と言うんです(笑)。それを主将の私は、監督の意思を継がないといけないと思い、監督が「暴れ馬になれ」と言っていたから、「暴れ馬にならないと」と思い、みんなに「バカになってやろうよ!」と伝えたんですよね(笑)。結局、監督の普段と違う一面に、選手みんなの士気が高まって、東龍に勝てたんですよ。

こんなにもバレーボールって楽しいんだと改めて思いました

高校卒業後は日本体育大学(東京都世田谷区)に進学したんですけど、ものすごく厳しかったですね。そんな中、嘉悦大学(東京都小平市)に進んだ昌美(高橋昌美選手)と麻依が、「チームは違うけど一緒に頑張ろう」って支えてくれていたのは大きかったですね。あとは、定期的に選抜があったのも、自分の中ではよい切替にもなりましたね。そこでは、先輩後輩に関係なく、みんなでバレーボールを作っていく形でした。「もっとこうしよう」とみんなで話し合って自由にバレーボールをする――「こんなにもバレーボールって楽しいんだ」と改めて感じましたね。合宿が終わると、またそれぞれの大学に帰っていくんですけど、別れ際に「また強くなって会おう」とお互いを励まし合えるよい仲間でしたね。

結果を残さないと生き残れないのが全日本

そして、4年生のときには、全日本に選んでもらったんですけど、「何で私が選ばれたんだろう」という想いが一番にありました。それを考え過ぎちゃって、“全日本の中で結果を出そう”とか、“結果を残そう”というところまで考えられずに遠征に参加していました。そして、ある試合のときに、レフトで出場したんですけど……戸惑いましたね。全日本にはライトのつもりで参加していたので。それで困惑してしまい、結果を残すことができませんでした。だけど、どのポジションであろうと結果を残さないと生き残れないのが全日本だし、「私にはできないです」と逃げていたら、一生チャンスは与えてもらえませんからね。その後は、ピンチサーバーとしても起用してもらっていたのですが、そこでも結果を出せませんでした。その遠征期間中、「このままじゃダメだ」とずっと感じていて、遠征最後の日にライトで途中出場する機会を得たんです。「ここで絶対にやらなきゃいけない」と思い、最後の最後に少し自分の持ち味を出せたのかなと思っています。だけど、もう遠征最終日だったので、マイナスに考え過ぎて逃げてしまっていた期間は、無駄な時間を過ごしてしまったなと思いましたね。でもそれ以降、もっと何事もプラスに考えて取り組まないといけないと考えるようになりました。結果的に、すごくいい経験になったし、もう1回全日本に選ばれたら、今までの自分を超える活躍を見せたいと思っています。

初めて自分自身でした決断

昌美と麻依と3人で一緒にバレーボールをしたら面白いだろうな――この想いは、JTマーヴェラスに入部しようと決心した理由のひとつですね。困ったときに2人だったら絶対に助けてくれると思いましたしね。あと、もう一つ理由があるんです。それは、JTマーヴェラスのバレーボールスタイルであるデータバレー。JTマーヴェラスは、相手をしっかり分析して試合に臨むスタイルですけど、私はどちらかというと気持ちで勝負して、ぶつかっていくタイプ。だから、データバレーは今までの自分のバレーボールになかった部分でした。でも、データバレーを取り入れることによって、自分自身が成長できると思ったんですよね。それもJTマーヴェラスに決めた理由の一つです。これまでは、親や先生の意見も進路決定には大きく作用していたけど、JTマーヴェラスへの入部は、これまでのバレーボール人生で、初めて自分自身でした決断でしたね。

今やるべきことを頑張ろう

Vリーグのデビュー戦は、ホワホワしていました(笑)。緊張してやばかったです。「試合に出すぞ」と言われて、「あ、はーい」というリラックスした感じで待機していたんですけど、いざ相手を目の前にすると、緊張してしまって何もできないみたいな。でも、何かチームの役に立たないといけないという思いで必死だったという思い出しかないですね。その後、シーズン途中にケガをしてしまい、長らくリハビリに専念することになるのですが。これまで、こんなに大きなケガをしたことがなかったので、辛かったし、すごく悔しかったですね。昌美と麻依は試合に出場しているから負担をかけられないと思い、辛い思いとか相談できないし、他のみんなもシーズン中なのでお見舞いには来られないというのを分かってはいるけど、寂しかったですね。そんな中、監督やトレーナーさん、病院の先生が私のことをすごく理解してくれて、リハビリをしやすい環境を整えてくれたんです。それはすごく大きかったですね。気持ちの整理もできたし、コートに入れなくても、チームをバックアップしなければならないし、私がコートに入ったときには、みんなを引っ張っていけるように、今やるべきことを頑張ろうと思えました。

JTマーヴェラスは、勝つために集まった集団

高校、大学と少しずつ大人になってきているので、学生のころみたいに、「よっしゃ、やろう!」という気持ちよりも、今は「自分がやらなければいけないことをしっかりとやろう」と考えるようになりました。そういう意味でも、JTマーヴェラスに入部する前と今の心境は、全然違うと思います。

一番変わったところは――、大学生までとは違い、バレーボールが仕事なので、夢や希望だけではダメだということ。私たちが、夢や希望を持ってJTマーヴェラスに入部したように、今度は、バレーボールをやっている子どもたちに、夢や希望を与えられる選手でなければならないということです。それと、ケガを経験したことによって、視野が広がったというのもありますね。そのことによって、試合に出ている選手の気持ちはもちろん、ケガをしてリハビリをしている選手の気持ちも分かるようになりました。だから、たとえ自分が試合に出場していたとしても、リハビリをしている選手たちのこともケアできる存在でいたいと思います。自分自身も、ここまでいろいろな人々に支えてもらいながらきましたからね。これからは、しっかりと感謝しながら、プラスに取り組んでいきたいと思います。JTマーヴェラスは、勝つために集まった集団だと思っているので、どのような環境になっても、私たちがやるべきことは変わらないですから。

※本記事は2014年9月時点のインタビューに基づいたものです。

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