ベゼラ・ダシルバ・サムエル・ジュニオル選手のインタビュー

JTサンダーズのミドルブロッカー、ベゼラ・ダシルバ・サムエル・ジュニオル選手のインタビューです。

そりゃあ、覚悟はありますよね

先生に呼び止められて「お前、バレーボールをせえ」と

日本に来たのは、9歳のとき。それまでは生まれてからずっと、ブラジルのサンパウロにいました。僕のお母さんは日系三世。お父さんはブラジル人です。僕は、最初はサッカーをやっていました。大抵のブラジル人はそうですね。でも、中学時代に足を痛めてしまって。それでサッカーへの気持ちが薄れてしまって、半年くらい帰宅部だったんです。

バレーボールをやるつもりはまったくなかったんですよ。バレーボールって、ブラジルでは何となく“お金持ちのスポーツ”とか“女の子のスポーツ”ってイメージがあって。でも、たまたま放課後に教室で遊んでたら、隣でミーティングをやっていたバレーボール部の顧問の先生が「帰れ!」と怒鳴り込んできたんです。僕らも「あっ、はい」みたいな感じで帰ろうとしたら、その先生に呼び止められて、なぜか「お前、バレーボールをせえ」と。で、その日のミーティングから参加しました(笑)。

あのときは、痛さを感じないくらい体が燃えていましたね

実際にバレーボールをやってみたら楽しかったですね。もっと上手くなりたいなと思って、それからは知らんうちにバレーボールを続けていた感じ。ポジションは、最初はレフトでした。でも、中学校の試合で初めてブロックを決めたときに「何これ、気持ちいい!」って思ったんですよ(笑)。アタックもいいんですけど、ブロックが一番よかったですね。センター(ミドルブロッカー)になったのは高校からなんですけど、当時からそう思っていたということは、もうセンターになる運命だったんでしょうね。

でも、うちの中学校自体はそんなに強くなかったんですよ。自分の代まで、もう20年くらい県総体にも出場できていなかったくらい。でも“これで負けたら引退”っていう最後の試合で、そのチャンスが巡ってきたんです。なのにその大一番で、僕、両足をねんざしちゃって。しかも誰かとぶつかってとかじゃなく、一人で勝手に(笑)。それでもう、タイムアウトのときに速攻でテーピングをしてもらって出続けたんですけど、結局フルセットで勝てたんです。

あのときは、痛さを感じないくらい体が燃えていましたね。僕だけじゃなくて、みんなすごく燃えていて――「この人たちと一緒に勝ちたい」と思ったんです。強い相手だったし、正直、負ける前提で臨んだんですけど、勝てて県総体に出場できたのは、中学時代の一番の思い出です。みんなまだ子どもだったけれど、絆というか、気持ちのつながりを感じる瞬間ってあるんだなと思いました。懐かしいですね。

どれだけ厳しく怒られても「昨日はあそこが駄目だったから今日は頑張らんと」って

高校は崇徳高校(広島県広島市)へ。自宅から40~50分かけて、自転車で通っていました。入学前に、自分の中でうっすらと「厳しいだろうな」と予想はしていたんですが、入学してみたらその予想をはるかに超えていました(笑)。今にして考えても、なんであのときあんなに頑張れたんだろうと思いますもん。朝起きるたびに「辞めたい」って思ってました。でも――不思議なんですけど、どれだけ厳しく怒られても「昨日はあそこが駄目だったから今日は頑張らんと」ってなるんですよね。その繰り返しで毎日毎日。先のことはあまり考えられなかったですよ。逆に考えていたら、高校3年間、続かなかったと思います(笑)。

だから、やっぱり練習の方が印象は強いですね。“試合では楽しく”というか、唯一楽しくやれたせいか、あまり試合のことは覚えていないです(笑)。練習はほぼ毎日で、休みは年に3~4日くらい。朝の7時から、夜は10時くらいまでやっていました。濃すぎて、3年間が5年間にも10年間にも感じられたほどでした。まあ、過ぎてみればあっという間だったような気もしますけどね。

だから、ほめられてはいけないんです

高校で監督の本多先生(本多 洋さん/元JTサンダーズ)に教わったのは、やっぱり一番はブロック。たとえどれだけ厳しい状況に置かれても、全力で飛べるか――。試合になると、常に100%の力で飛ぶのは大変じゃないですか。でもそこでどれだけ頑張れるか。しつこく、厳しいボールにも食らいついていくブロックは、自然と身についたように思いますね。先生にほめられたことですか? いや、ないです。ほめられたら自分はおしまいですね。きっとそこで満足しちゃうので。だから、ほめられてはいけないんです。

うちの高校のバレーボールは、つないで、ディフェンスからの切り返しで攻めるスタイル。ブロックとレシーブの連携も徹底されていて、コンビも速かったです。当時、県内では工大付属(現:広島工業大学高校/広島県広島市)がうちのライバル校で。県選抜なんかはうちよりも工大付属の方が多く選出されていましたね。でも、どんなメンバーでも崇徳の看板を背負っている以上、勝たなくてはいけない。メンバーの良し悪しは言い訳にならないんです。正直、自分たちの代のとき、春高バレーは「多分、出られんじゃろう」って言われてたんですよ。周りには負けると予想されていたんです。でも、何とか勝てたんです。やっぱり勝負に何が起こるかなんて分からないですよね。

"楽になった"というよりは"大人になった"というか

高校でバレーボールをやっていた間は「バレーボールはここまででいいや」って思っていたんです。でも、引退したときに何かやり残した感があったというか……まだやりたいな、と思って。そのときに運よく声をかけていただいて、福山平成大学(広島県福山市)への進学が決まりました。大学は高校とはまた違った感覚で、監督は一切何も言わず、選手たちが全部動かしていく感じ。“楽になった”というよりは“大人になった”というか、やらされるのではなく、勝つために考えてやるという。やった分だけ結果も返ってきましたし。

そして、2年生のときに初めて中国リーグで優勝したんですよ。西日本では東亜大学(山口県下関市)がトップじゃないですか。うちにとってもかなりの強敵で、それまでもずっと勝てていなかったんですけど、決勝で2戦やって、フルセットと3-1で勝てたんです。そのときは、相手に関係なく最初から力を出し切ってやっていたことが、決勝での勢いにつながったというか。流れに乗って東亜にぶつかることができたのがよかったんだと思います。リーグの後の全日本インカレでもベスト8で筑波大学(茨城県つくば市)に勝って、それも快挙でしたね。

今決めたことが、この先の人生にずっと関わってくるわけじゃないですか

初めてJTサンダーズに声を掛けていただいたのも、大学2年生のときで。自分では「まさか」という感じでした。バレーボールを仕事にできるなんて、と。JTの体育館には高校のころに合宿で来たりもしていたんですけど、まさか将来ここまでバレーボールを続けるとは思わなかったですね。当時は合宿自体もきつかったので、最終日には「もうこの体育館に入らんでよくなったな」とほっとしていたくらいだったのに(笑)。

だから自分にとっては、Vリーグなんてもう別世界だったんですよね。それがねえ、こんなことになるなんて。僕の家族は、もともと父の転勤で日本に来ていて。僕も本当は大学までの予定で、卒業したらブラジルに戻る予定だったんです。でも、チームからお話をいただいて……やっぱり結構悩みましたね。それは、国籍を変えて、日本にい続けるということでもあったので。今だけじゃなくて、ずっと。今決めたことが、この先の人生にずっと関わってくるわけじゃないですか。実際、僕なんて見た目も中身も日本人っぽくないでしょう。なのにこれからは日本人として、周りからも日本人らしさが求められる。それはやっぱりすごく大変なことだと思うし、自分でも大きな決断だったと思います。そりゃあ、覚悟はありますよね。ここまで来たら、中途半端にはできないと思いますね。

僕にとって、バレーボールは「人生の始まりで終わり」

Vリーグ入りしてからしばらく経ったけれど、今はまだ、ついていくのに精いっぱい。練習の一つ一つにしても求められるレベルが高いし、練習を通して常に高い水準をキープしなくちゃいけない。試合に出るために、いろいろなものをしっかりと身につけたいですね。それにもっと気持ちを鍛えて、強くなりたいです。みんな身体能力は高いし、ずば抜けた差はないじゃないですか。最後はやっぱり気持ちだと思うから、ちょっとずつ、ちゃんと感情を出していけるようになりたいですね。自分としてはまだスタート地点に立ったばかりなので、まずは、JTサンダーズの一員として恥じないような一人前の選手になることが目標。そして、試合に出て、チームとして優勝できたらめちゃくちゃうれしいと思います。

僕にとって、バレーボールは「人生の始まりで終わり」。最初からそう考えていたわけじゃないけれど、ここまでやってきて、今の自分があるのはバレーボールのおかげだと思うんですよね。ここまで成長できた、この先も成長していきたいっていう前向きな気持ちにさせてくれるんです。バレーボールから始まった人生の最後の最後まで、何かしらの形でバレーボールと関わっていきたいです。

※本記事は2012年4月時点のインタビューに基づいたものです。

JTサンダーズ