井上俊輔選手のインタビュー

JTサンダーズのセッター、井上俊輔選手のインタビューです。

セッターとしての自分を育ててくれ、作ってくれたのもJTサンダーズ

試合は負けたわけなんですが、それが非常に悔しかったんです

バレーボールを始めたのは小学校4年生のとき。西北小学校クラブという、バレーボールチームです。入部する前は、男子チームの部員が減少し始めていたときだったんです。それで、すでに入部していた友達のお兄ちゃんが弟を誘い、そして自分と同級生だったその弟に僕が誘われたというわけです。「部員を集めるから、お前もやろうや!」「うん。じゃあ、するわ!」という感じで。実は当時、たくさんの習い事をしていたんです。珠算に書道、あとは水泳。そして英語もです。週2日は珠算で、土曜日は書道。水泳も週2日あって……と、かなり忙しかったんです(笑)。だから、最初は空いている日にバレーボールチームに行くという感じでした。当時の自分にとってバレーボールは、ぼちぼちって感じだったんです。他の習い事が忙しかったんで(笑)。

そんな中ある日、部員が足りないということで、急きょ試合に出ることになったんです。誰もトスを上げられないし、誰もスパイクを打てないという、そんなレベルのチームだったんですけどね。自分自身も、試合の前日に親父から「明日はちゃんとサーブを入れろよ」と言われて、「え? サーブって何?」と答えるようなレベルだったんです。そんな感じだったので当然、試合は負けたわけなんですが、それが非常に悔しかったんです。何も出来ず、ぼっこぼこに負けたことが。ましてやそのころ、身長は他の同級生たちよりも高かったんです。それなのに、自分は下手くそで、勝てなくて。それが相当、悔しくって……。そこからですね。他の習い事をサボってまでバレーボールの練習に行くようになったのは。そのうち、両親も「それなら他の習い事はすべてやめて、バレーボールに集中しなさい」と。それからは取りつかれたように、毎日毎日練習。休みも返上でずっと練習していました。セッターになったのも、そこからですね。

先生にも恵まれましたね。先生は、もともとサッカーをやっていて、バレーボールの経験はなかったんです。でも、とにかく熱心で、とても勉強家でした。強い小学校との合同練習など、強くなるために先生もいろいろと工夫してくれました。そういう強い小学校との合同練習では、自分たち生徒だけではなく、先生も指導について学んだりしていました。先生も僕たちも一緒に勉強して、練習して、チームは徐々に強くなっていったんですよね。その結果、小学校6年生になったときに、やっと県で1位になれたんです。

入部するのは自然の流れでしたね

中学校は、すでにクラブチームのときの先輩がたくさん入部していました。だから、自分も入部するのは自然の流れでしたね。中学校のコーチも「早く入部してこい」と言ってくれていましたし。だから、小学校を卒業してすぐ、まだ中学校に入学していない時期から練習に参加していました(笑)。そして、小学校時代からずっとトスを上げ続けてきていた先輩たちが多かったこともあって、すぐにレギュラーでしたね。チームはそこそこ強かったです。地区大会では優勝したこともありましたしね。でも、県大会となると……永野健(パナソニックパンサーズ)がいた佐世保市の日宇中学校にいつも負けていました。たいてい、県大会の一回戦か二回戦で日宇中学校とあたるんですよ。毎回、結構追いつめていたんですけどね。フルセットで、しかもジュースまでもつれるんですけど……最終的には負けるんです。対する彼らは、いつも準決勝や決勝まで進んでいましたね。

オリンピック選手の考えるメニューときたら、半端なかったです

実は、高校ではバレーボールを続ける気はなかったんです。でも当時、長崎商業高校(長崎県長崎市)のバレーボール部の顧問をしていた佐藤先生と出会いまして、説得されたんです。高校の恩師である大浦正文先生(バルセロナオリンピック代表/元サントリーサンバーズ)の恩師にあたる方なんですけどね。その佐藤先生が突然、中学校に来て、「お前はバレーボールを続けんともったいない選手だ。だから、おれの元でやらないか」と。それに、これまでお世話になった人たちにも「これからもバレーボールを続けんしゃい」と声をかけてもらって。心を動かされましたね。それで、長崎商業高校に進み、バレーボールをすることにしたんです。

長崎商業高校でのバレーボールは、環境も含めて自分に合っていました。「楽しくバレーボールをして、なおかつ強くなる」という自分の考えと、チームが求めるバレーボールが合っていたんです。もちろん、練習は厳しかったですよ。でも常に、「やっぱりバレーボールが好きなんだな」という思いの方が勝っていました。それに、大浦先生の存在も大きかったですね。ただ、オリンピック選手の考える練習メニューときたら、半端なかったですけどね。そのメニューに加えて、先生のスパイクの威力と速度が半端なかったです。相当、レベルが高かったです。その後、大浦先生は転勤になってしまったので、実際に指導してもらったのは1年ちょっとでしたが、本当に大きな経験でしたね。

結束力は相当でしたね

長崎商業高校は古豪なんですよ。大浦先生たちの時代は全国大会に出場していましたけど、僕たちの代はベスト8止まりでした。長崎は強豪高校が多いですからね。大村工業はもちろん、当時は佐世保南や佐世保北、そして長崎北あたりも強かったですね。地区では優勝争いをしていましたけど、県大会では優勝できなかったです。他校に比べて、部員数も少なかったですし。でも、結束力は相当でしたね。なんせ、同級生は自分も含めて4人だけでしたから。自ずと、結束力が強くなりました。

高校時代の思い出といえば、高校3年生の高校総体のシード権をかけた大会。地区大会で優勝し、その後の県大会でもベスト4になったんです。本当にうれしかったですね。今まで味わったことのいない気持ちでした。ずば抜けてすごい選手が集まっているというわけではなく、部員数も少なくて、いつもギリギリの人数で戦っているようなチームでしたから。でも、その次の決勝戦をかけた準決勝では、佐世保南にぼっこぼこにやられましたけどね……。負けは悔しかったですけど、4シード獲得は純粋にうれしかったです。だから、シード校として出場できる高校総体にかける思いはこれまで以上でしたね。しかも、地元の長崎県での開催だったので、2校出場できるわけです。全国大会出場に向けて、可能性は広がりますよね。でも、1回戦で負けてしまったんです。しかも、ストレートで……。ただ、辛かったですけど、本当に一生懸命やった上での結果でしたから、悔いはなかったですね。

大学時代の大きな出来事といえば、白澤さんとの出会い

福岡大学では、入部当初からレギュラーで使ってもらっていました。でも、入部早々の春リーグで負けてしまって……。九州王者が陥落したわけです。牛原監督から期待されていたことは分かっていたので、それに応えられなくって、申し訳ない気持ちでいっぱいでしたね。それでも監督は、根気強く使ってくれたんです。結局4年間、起用し続けてくれました。チームもその春リーグで一度は陥落しましたが、次の大会ですぐに雪辱を果たして、自分たちの代が卒業するまではずっと王者に君臨し続けました。そこは、絶対に死守しようと思っていましたからね。

そして、大学時代の大きな出来事といえば、白澤さん(白澤健児選手/パナソニックパンサーズ)との出会いです。1学年上なんですけど、白澤さんとの出会いは、自分自身のバレーボール人生に大きな影響を与えました。当時、白澤さんはセンターエースでした。Aクイックに3枚ブロックがつくほどで、チームの絶対的な大黒柱だったんです。そんな白澤さんのバレーボールに対する真剣さは、当時から相当なものでしたね。それに、バレーボールを思う気持ちというか、好きという感情もすごかったです。練習量も相当でしたしね。一緒にプレーした3年間は、通常の練習が終わった後はいつも2人で残ってコンビ練習をしていました。これがなかなかの長時間でして、自分はずっとトスを上げ続け、白澤さんは延々とクイックを打ち続けるわけなんです。本当、ストイックなんですよ。でも、お互いにレギュラーですし、勝つためにコンビ合わせは重要ですからね。JTサンダーズに入ってからも、スパイカーとはよくコンビ練習で残ったりするんですけど、この当時の白澤さんとの時間を通して培われたものともいえますね。

これまで全然取れなかった奴が、最後に3つ

大学時代は、常に白澤さんとはセットでした。チームの大黒柱であるから当然、白澤さんは目立つんですよね。そうすると、その白澤さんにトスを上げている自分も自ずと目立つわけです。だから、東西対抗などでも白澤さんが出場するので、自分もコートに立てるわけです。セットですから(笑)。ある年の東西対抗で、筑波大学と対戦したことがあるんです。こっちは自分と白澤さんコンビで、相手は菅(菅 直哉コーチ)と丸山祥二(つくばユナイテッドSun GAIA)のコンビだったんですよ。この2人は、長崎県の大村工業高校コンビでもあるんですけどね。この福岡大学コンビVS筑波大学コンビの対決は、白澤さんがスパイク賞を取ったので、自分では勝ちと思っています。ただ、セッター賞は菅だったんですけどね(笑)。自分自身は、大学時代で個人賞を取れたのは4年生のときだけです。でも、セッター、サーブ、ブロックの3部門獲得。3つ取ったんですよ。これまで全然取れなかった奴が、最後に3つ。チームメートは爆笑していましたけどね(笑)。それに、4年生のときは、九州勢にとって十数年ぶりとなる、ベスト8だったんです。最後に結果を残せたことは、本当にうれしかったですね。

これからは懐深く、構えられるかなと

まさか自分が、Vリーグのチームに入部するとは思っていなかったです。しかも、1年目から試合に使ってもらえるとも思っていなかったです。ただ、最短記録も作りましたけど……。1点で交代というね(笑)。今振り返ってみても、1年目はある意味がむしゃらといいますか、本当に怖いもの知らずでプレーしていました。でも、2年目から痛感させられましたね。自分に責任を持たないといけないと。自分のワンプレーが、全員の仕事としてやっていますから。自分が今までモットーとしてきた「バレーボールを楽しくやる」ということは、時としてみんなの足を引っ張ることになると痛感させられました。そこが、これまでとVリーグとの一番の違いでした。

2年目以降、それまでのバレーボール人生で体験したことのない、さまざまなことがありましたね。責任を持って自分の思い描くプレーができたこともあった反面、思い通りのプレーをできないこともありました。周りの期待に必死で応えたいけど、結果が出なかった時期もありましたしね。本当、いろいろな感情の中で、あらゆる状況を経験しました。これまで実感しなかったような思いもすべてね。それは、コートの中でもコートの外でも味わいました。ただ、悔しい気持ちを抱えながらコートの外で見ていたときは、自分に足りない部分や強化が必要な部分を見つめ直すよい機会になったと思っています。それに、これからはもっと懐深く、構えられるかなと。そして、この経験を生かしていきたいですね。

JTサンダーズは、自分にとってすごく大きな物ですね

自分が今まで教えてきてもらったのは、やはり「スパイカーに対して、感謝の気持ちを持ってトスを上げる」ということなんです。それは、バレーボールを始めた小学生のときから言われてきたことなんですよね。それに、両親の教えも一緒なんです。「人に感謝しながら生きなさい」と、小さいころから聞かされて育っていますから。それに加えて「これまで素晴らしい選手たちがよいスパイクを打ってくれてきたから、今のあなたがあるんだよ。あなたがすごいから、勝ててこられたわけでも、ここまでこられているわけでもないんだよ」と。そういう環境の中でずっと育ってきたので、自然とその感覚が染みついているんです。

だから、セッターとして今も変わらずに大切にしているのは、スパイカーが打ちやすいトスであること。それが大前提ですね。それに加えて自分が成長したいところは、攻撃力。スパイカーが打ちやすいトスを信条とした攻撃型セッター――、そこを目指すセッター像として追及していきたいです。どれだけ自分の技量がついていくかは分からないですけど、もっと努力して、もっと練習して、攻撃のスキルをつけていきたいです。やはり、先輩からも後輩からも、スパイカー全員から頼られるようなセッターになりたいですから。セッターはゲームを作れなかったら終わりだし、だからこそ試合を壊してしまうこともありますよね。スパイカーのように一発で流れを取り返すこともできない。本当に難しいです。でも、その難しさが好きというか、楽しいんです。醍醐味ですね。やはり、自分の思い通りの絵が、その場で描かれた瞬間は、一番ゾワッてしますしね。結局のところ、セッターとして、もっと上手くなりたいって気持ちが常にあるんです。

JTサンダーズは、自分にとってはとんでもなく大きいもの。セッターとしての自分を育ててくれ、作ってくれたのもJTサンダーズ。そして、人間としての自分を作ってくれたのもJTサンダーズ。それは社会人としての経験というのもあるんですけど。だからもう、JTサンダーズは、自分にとってすごく大きなものですね。感謝してもしきれないほど、大切なものです。

※本記事は2011年9月時点のインタビューに基づいたものです。

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