日本で一番ミスが少ない選手になりたい

練習が厳しすぎて1回だけ「辞めたい」と言った

母親がママさんバレーをしていたので、それに自分と姉が遊びに行く感覚でついて行っていました。その後、姉が入っているクラブチームの練習にもついて行くようになり、そこからボールと触れ合うようになりました。
本格的にバレーボールを始めたのは小学校3年生のとき。ポジションはレシーバーです。小学生のバレーボールはローテーションがないので、ずっとレシーブをするだけでした。そのころはまだ身長が小っちゃくて、スポーツができるような体ではなかったです。

小学生のときに練習が厳しすぎて1回だけ「辞めたい」と言ったことがあるんです。でも、父親に「絶対に辞めるな」と言われて泣く泣く続けました。それ以降は、一度も自分からバレーボールを辞めたいと思ったことはなかったです。深く考えていたわけではないですが、小学生のころからバレーボール中心の生活を送ってきていたので、それが無くなるというのは自分の中でありえなかったんですね。

中学校では、ずっとリベロをやっていました

中学校では、入学時点で身長が150cmもなかったので、ずっとリベロをやっていました。中学校3年生のときは、自分がリベロをやってしまうと前衛の人数が足りなくなってしまうので、渋々前衛をやっていましたが、前衛なのにスパイクは全く打てないという珍しいタイプの選手でした。
チームには身長の高い選手が二枚看板でいたので、彼らをサポートするためにいかに自分たちが頑張るかという形式のチームでした。自分はチームを引っ張るような存在ではなかったです。

自分たちの先輩がすごかったので、中学校1・2年生のときは、全国で2回優勝しました。だから中学校3年生になったときは、前年まで全国を連覇しているチームとしてのプレッシャーがありました。自分たちの代で「弱くなった」と言われたくなかったので、一生懸命やりましたが、戦力的に難しい部分もあって、全国大会のベスト16で浅野(博亮)選手(ジェイテクトSTINGS)がいた中学校にフルセットで負けてしまいました。

「こうやれば決まるんだ」というのが分かってきました

通っていた安田学園中学校は、中高一貫校だったので基本的には同級生のバレーボール部員も全員、安田学園高校(以下:安田学園)に上がる予定でしたが、実際は1つ上の先輩と自分たちの代がほとんど別の高校に進学して、散らばってしまいました。自分は安田学園で頑張ってみようと思い、そのまま上がることを決めました。

高校に入って急に身長が伸びたんです。中学校3年生の夏で170cmもなかったのが、高校入学のときまでに178cmに伸びて、高校2年生で183cm、高校3年生で今の身長(187cm)になりました。
高校1年生まではリベロをして、2年生から本格的にスパイカーとして打ち始めました。でも、最初は全く打てない、決まんない、やり方が分かんないって感じでした。「どうしよう」と思いましたが、打っていくにつれ「こうやれば決まるんだ」というのが分かってきました。

高校のバレーボール部には、近所の中学校でバレーボールをちょっとかじっている程度の生徒や未経験者しか入ってきませんでした。そういったメンバーの中では、自分は本格的にバレーボールをやってきていた方だったので、必然的にみんなを引っ張っていかないといけない立場になりました。

3年生のときは主将を務めました。あまり口がうまくなかったので、なんとかプレーでみんなに認めてもらおうという思いでやっていました。高校時代の最高成績は、東京都でベスト8。ただ、強豪の東亜学園高校と対戦する機会が何度かあって、ストレートで負けはしましたが、20-23ぐらいまで競った試合をすることができました。
バレーボールを全然やったことのないような選手を集めて2年間頑張って、負けはしましたけど結構いい試合ができたことは、自分の中で自信につながったと思います。

立場が変わると考え方も変わるんだなと実感

高校は強豪校ではなかったので、大学は勝てるチームに行きたいという願望がありました。姉が日本体育大学(以下:日体大)の森田淳悟先生に話をしてくれたおかげで、練習に参加させてもらうことができ、それがきっかけで日体大に進学することになりました。

高校バレーと大学バレーの雰囲気はだいぶ違いました。迫力がすごかったですね。日体大への入学が決まってから、米山達也さん(サントリーサンバーズ)の代の全日本インカレ決勝を観に行きました。その試合も雰囲気や迫力がすごかったですが、いざ練習に行ってみるとさらにすごかったです。

規則から練習中の雰囲気、声出しや先輩への気遣いまで、今までの環境とは全く違うところに来てしまったという感じがして、最初は戸惑いました。あとは、上下関係の厳しさも半端じゃなかったですね。それでも辞めたいと思ったことはありませんでしたが、ほかの大学に行けば良かったなと(笑)。バレーボールを辞めたいというか日体大を辞めたいなと思う時期は正直何度もありました(笑)。

大学4年生のときは主将をやらせてもらいました。部員のほとんどは強豪校でやってきた選手ばかりだったので、自分のプレーで引っ張るというよりも、声掛けや周りへの気配りに重きを置いていました。闘争心をむき出しにすることはあまりなかったですね。自分の中で「冷静に、冷静に」と言い聞かせてやっていました。

下級生のときとは考え方も変わりました。1・2年生のときは、こういう雰囲気の中でやりたくないとか、そんなに迫力を出してやらなくてもいいんじゃないかと思っていましたが、学年が上がるになるにつれて、士気が下がった状態でやってはダメだとか、もっと声を出させないとダメだとか、受け身だったこれまでとは逆の考えになっていきました。立場が変わると考え方も変わるんだなと実感しました。

大学時代、一番印象に残っている試合は、3年生のときの全日本インカレ決勝ですね。安永拓弥さん(JTサンダーズ)や小澤翔さん(元JTサンダーズ)がいた東海大学と対戦して、フルセットまでいきましたが負けてしまいました。今まで経験した試合の中で一番独特というか、やっていて気持ちいいなと思った試合でした。決勝の舞台で、お互いの「勝ちたい!」という気持ちがぶつかっているなという雰囲気が心地よくて、それが印象に残っています。

あと日体大では監督の山本(健之)先生との出会いも大きいです。技術面だけではなく、人間としてのあり方についていろいろと教えていただいたことが、今になって生きているなと思いますね。今でも、スパイクが決まらないときやサーブレシーブがうまく返らないときには、(山本先生が)何て言ってたかなと思い出すことがたまにあります。

一から頑張らないと変われない

大学卒業後、FC東京に入部した理由は、大学3年生のときにFC東京の坂本(将康)監督が声をかけてくださって、「東京出身だったら東京でやらないか」と誘っていただいたからです。東京に残ってプレーしたいという思いが強かったので「ぜひお願いします」と答えました。入部するまで、FC東京がどういうチームか知りませんでしたが、最初に声を掛けてくれたのがFC東京だったことと、東京に残りたいという気持ちが大きかったので、FC東京への入部を決めました。

FC東京を離れようと思ったきっかけは、子どものころからずっとやってきたバレーボールなので、どうやったらもうひと伸びできるだろうか考えたときに、環境を変えようという答えが自分の中で出たからです。

坂本監督には本当に感謝しています。退団を申し出ようとしたとき、最初に相談しました。怒られるのかなと思いましたが、親身になって聞いてくださって「Vリーグに引っ張ったのは俺なんだから、どのチームに行っても頑張ってほしい」と言っていただきました。FC東京ではレギュラーでプレーしていたのに、JTサンダーズに移籍して一度も試合に出られずに終わってしまったら、それこそ「その程度かよ」と言われてしまう。自分自身もそれで終わる気はないので、そういう部分で頑張らなきゃと思います。

FC東京ではずっとレギュラーで出させてもらっていたので、居心地の良かった場所なんですけど、本当に縁もゆかりもないところに行って、一から頑張らないと変われないなと思ったのが退団に至ったきっかけです。東京はもともと地元なので、遊ぶところもあれば頼る人もたくさんいます。なかなかそうなってくると自分の中で“もう一歩”頑張ろうという気持ちにはならないというのを3年目にして気づきました。

JTサンダーズは、強いというイメージしかないです

退団を決めてから、いくつかのチームから声をかけていただきました。その中でJTサンダーズを選んだ理由はいくつかあるんですが、まず練習試合で来ていたので環境がすごくいいというのは知っていました。あとは、同期がいないこと。それにしゃべったことのある選手もあまりいなかったので「ここなら頑張れそうだな」というのが感覚的にあり、入部を決めました。

だからチームのことは、あまり知らなかったです。知り合いがいれば「どんなチームなの?」って聞けるんですけど、JTサンダーズに関しては誰ひとり聞ける選手がいなかったので、分からない部分がありました。「こういうチームなんだ」というイメージを抱く機会がなかったです。ただ、強かったというイメージはあります。優勝した「2014/15V・プレミアリーグ」は、対戦しても全然セットも取れなかったので、印象としては強いイメージしかないですね。

チームのことをほとんど知らない状態で加わりましたが、基本的な練習の雰囲気というのは今のところそんなにギャップは感じないですね。この1年は、チームメートとコミュニケーションを取って、みんなと打ち解けられるようになることが、最優先だなと思います。

今、バレーボール人生で初めて外国人監督の指導を受けています。ヴェセリン・ヴコヴィッチ監督は当たり前のことに対してすごく厳しいというか、基礎を大事にする監督ですね。以前は奇策を弄してきそうな雰囲気や、データの裏をかいてくるような印象がありましたが、実際に指導してもらうと、パスの精度を上げるとかミスを少なくするとか、当たり前のことをしっかりやるという指導方法だったのでギャップがありました。意外でした。

バレーボールを軸に生きてきた

僕のプレーを観たことがないJTサンダーズファンの方には、オフェンス面では、サーブを観てほしいですね。得意かどうかは分かりませんが、好き勝手できるので好きなプレーの一つです。武器というか得意でありたいと思います。逆に、スパイクはどちらかといえばあまり自信がないですね(笑)。

ディフェンス面では、サーブレシーブですね。自分の中でサーブレシーブはメンタル面での勝負な気がするんです。大事なところで弾いてしまうと、そのあともずっと返らないというか……そういう面白い要素もあります。サーブレシーブに関しては、どんな状況でも「今までこれだけやってきたんだから」と負けない気持ちになれます。それは小学生のときからずっと取り組んできたおかげだと思います。

今後の目標は、日本で一番ミスが少ない選手になりたいですね。決定率よりも効果率を意識したいです。ミスが少なく、なおかつ得点を獲れる選手を目指したいと思います。
4年後、僕の“地元”で開催される東京五輪も狙っていきたいです。全日本代表に選ばれるためには、レシーブ技術がサイドプレーヤーの中で一番になれるくらいに磨かないといけないと思いますが、まずは身体を作ることが一番やるべきことだと思います。フィジカルが低いというのは弱点だと思いますし、それを克服すればスパイク、サーブの威力も増して、もっといい選手になれると思っています。今はとにかくフィジカルの強化とディフェンス力を磨くということを意識してやっていきたいです。

(山本選手にとってバレーボールとは)-- 楽しむものなので、娯楽というか遊びというか「本気でやる遊び」ですかね。えっ大志(唐川選手)と一緒ですか!? もう一ひねりします(笑)。悔しいと思う部分もあれば、勝ってうれしいと思うこともあるので、そういうのをひっくるめて楽しいです。ずっと小学校のころからやってきて、自分の今までの人生で中心になっていた部分は大きいですね。バレーボールを軸に生きてきた感じです。

  • 本記事は2016年9月時点のインタビューに基づいたものです。