吉岡光大選手のインタビュー

JTサンダーズのウイングスパイカー、吉岡光大選手のインタビューです。

いぶし銀になりたいです

バレーボールは言い訳で始めたんです

もともと僕は、小学校1年生のときから柔道をやっていまして。お父さんから「小学校に入ったら習いごとをさせる」と言われていたんですが、僕自身は何にも興味がなかったんですよ。ただ、お父さんが以前柔道をしていたこともあって「柔道をするか?」って聞かれて、「じゃあもう柔道でいいや」っていうノリでやっていました。小学校1年生から3年生まで、3年間。

でも、柔道をやっていくうちにだんだん面白くなくなってしまって。強くもならないし、本当になあなあな感じでやっていたんです。そのころ、ちょうどシドニー五輪が開催されていたんですが、それをお父さんとテレビで見ていたら、金メダルを取った井上康生選手を指して「お前もこうなれ」って。井上選手と僕の地元、一緒なんですよ。宮崎県の延岡市っていうところで。僕、そのとき本当に柔道をやりたくなくて。そこで苦し紛れに出た言葉が「いや、僕はバレーボールで金メダルを取るよ」って。全然そんなこと思ってなかったんですけど、柔道をやめたかったので。はい、そうです。バレーボールは言い訳で始めたんです。

バレーボールは最初、姉がやっていたんですよ。だから姉を迎えに行ったりするときなんかに、ちょろちょろとボールで遊んでいたりしたくらい。別に好きでもなかったんです。走るのはそこそこ速かったんですけど、好きなスポーツがなかったんですよ。姉が入っていたのは小学校の女子バレーボール部だったんですが、僕が入った小学校3年生の年にちょうど男子のバレーボール部もできたんで、ちょうどいいな、と。そういうノリで入りました。

やめたいとかはなかったですね。どんどん上達していくのが自分でも分かったので

でも、実際にバレーボール部に入ってみたらすごく新鮮で、楽しかったです。全然厳しくもなかったですし、本当に球遊びをしているような感覚で。そこからだんだんはまっていきました。でも、最初は全然勝ちたいというバレーボールじゃなくて、ただやっているだけ。試合に出ても10点以上取れないとかはざらで、2点で負けたり、0点で負けたりしたこともありました。

「勝ちたい」という気持ちが出てきたのは、小学校5年生のときですね。6年生が引退して一番上になったときなんですけど、当時、僕のお父さんが部の親子会の会長をしていまして。そこで、お父さんに「このままで大丈夫か? こんななあなあな感じでもやり続けるのか」と聞かれたんです。結構、熱い人なんですよね、うちのお父さん。そのときに初めて、もっと本気でやりたいという気持ちが出てきて、「もっと勝ってみたい」って言ったんですね。そうしたら、お父さんがすごいスパルタな監督を呼んできまして(笑)。そこからの毎日は本当にきつかったです。でも、バレーボールをやめたいとかはなかったですね。どんどん上達していくのが自分でも分かったので。

自信がついたんですかね、みんなに

僕が進学する予定の中学校にはバレーボール部がなかったんです。そのころにはもう、バレーボールが大好きだったけれど、やっぱり転校するのっていやじゃないですか。だから、バレーボールは小学校で終わりだと考えてたんです。最初は、中学校に入ったら野球をすることになってたんですよ。お父さんが「どうする?」って聞いてきて、「じゃあ野球をやるわ」っていう、ここでもまたそういうノリで。お父さんも「そうか」って言って、仕事から帰ってきたら一緒にキャッチボールをしたりしていたんです(笑)。でもある日、隣の中学校からお誘いをいただいてしまって。当時の担任の先生にも、バレーボールを続けた方がいいと言われて、「じゃあもうちょっとやってみようかな」と。そうやって、隣の中学校に通うことになりました。

僕の地元の宮崎県延岡市は本当に田舎なんですが、通うことになった中学校は延岡の中でもスター選手がいっぱいいる学校でした。僕、小学校ではうまい部類だったんですけど、中学校に入ってすぐはすごく下手くそな部類になってしまって、それがいやで頑張って練習していました。そうしたら自分たちの代でキャプテンを任されて、エースにもなってしまって。2年生の県大会では準優勝。その後九州大会に行ったけれど、そこでは全然歯が立ちませんでした。でも、3年生に入ると、県の中でも優勝候補って言われるようになったんですよ。それまでずっと強いチームに負けていたんですが、ある試合で勝って、それをきっかけに負けなしになりました。何ででしょうね。自信がついたんですかね、みんなに。

そこから1回も負けることがないまま夏の大会に臨んだんですが――、1回戦で負けました。僕自身はその後、JOCに呼ばれたりとかもあったんですけど、中学校の部活では結局それが、引退試合になりました。敗因は、準備不足ですね、はい。あまり大きな声で言えないんですが、ちょうどそのころサッカーのワールドカップをやっていまして(笑)。決勝戦がフランス対イタリアだったじゃないですか。チーム内でもその二手にファンが分かれていて、僕ら、ネットも立てずにずっとサッカーしてたんですよ。そうしたら案の定、隣の女子バスケットボール部の先生に言われて、そこからちょっとまじめにやってたんですけど、すでに遅かったですね。

もっとちゃんとしていれば、もっといい結果が出せたんじゃないかなと思います

高校は親に負担をかけたくなかったので、特待で私立に行こうと思ってたんです。だから、最初は福岡の高校に行くつもりで、もう行く気もまんまんだったんですね。都城(都城工業高校/宮崎県都城市)から声がかかったのは一番最後でした。都城は公立だったので、お金がかかるし、寮にも入らなくてはならないしで、初めは行く気がなかったんです。でも監督の鍋倉先生(鍋倉雄次郎さん/都城工業高校バレーボール部監督)が来てくださって、僕とお父さんと鍋倉先生とで話をして。そしたらその話が本当に長くて、僕ほとんど頭に入ってなかったんです。何のこっちゃ分からなかったんですけど、話が終わるころにはもう、お父さんが鍋倉先生に惚れていて(笑)。「都城に行ってこい」って言われまして、はい。

高校の練習は、中学校のときとは全然違いましたね。中学校のときは厳しくなくて、楽しくやって強くなった感じだったので、「なんだ、バレーボールって簡単なんだ」って思っていて。でも高校に入ると体のつくりも変わってくるし、当時の3年生の人も訳分かんないくらいごついし、とてもこんな人たちには勝てないと思いました。そこから筋トレを始めたりしましたね。高校と中学校のレベルって、多分、素人が見ても分かるくらい違うんですよ。そのレベルに自分がついていけるようになるとどんどん楽しくなって。さらに、そのレベルで自分が引っ張っていけるようになるともっと楽しくなって。――結局、自分に合っていたんですかね。

僕、高校のときは本当にスパイクマシーンだったんです。だからひたすらスパイクを打っていましたね。それで高校2年生のときにキャプテンになって。でも、僕そんなに向いていないと思うんですけどね。すべてにおいて中途半端というか。全国大会でもいい成績を出せたんですが……、なんですかね、正直僕はあまり納得したプレーができなかったですね。高校時代は燃え尽きていないような気がします。人任せになっていたところがすごく多かったですし……、練習が本当にきつかったので、途中で何回もやめようと思ったし、当時は「バレーボールは高校までで終わりにしよう」と割り切っていたので、燃え尽きた記憶がないです。本当に他力本願でした。今考えたら本当にダサいんですけど、もっとちゃんとしていれば、もっといい結果が出せたんじゃないかなと思います。悔いが残っていますね、高校は。

今まで生きてきた中で一番でかい存在です

当時は消防士にあこがれていたんですよ。公務員になるためにテキストも買っていたくらいだったんです。だからもう、「大学には行きません」って先生にも親にも言っていて。お父さんは最初、「お前が決める道だから」って言っていたんですが、結構大学から声もかけていただいていたので、そのうち「お前は、未来に向かっている列車を途中で降りかけているんだ」って言いだして(笑)。「それでもいいんか」と。でも、僕は結構堅かったんです。高校でいろいろな結果が出せたのは自分の力じゃない、だからもう上では通用しないし大学にも行かないって。学校中の先生が「大学に行った方がいい」って言ってくれたときも、僕は堅かったんです。でも、最後に佐幸先生(佐幸法昭さん/東亜大学バレーボール部監督)がやってきて。

佐幸先生は、本当にラスボスみたいな感じでしたね。で、気が付いたら僕、「お願いします」って佐幸先生と握手してました。はははは。佐幸マジックにかかりましたね。バレーボールで大学って言ったら、やっぱり関東の学校が強いじゃないですか。でも佐幸先生は「山口県のど田舎の大学が日本一になったらかっこいいと思わんか」と。「俺と一緒に日本一にならんか」と言われて、その言葉に惚れましたね。確かに、こんなど田舎の大学がインカレで優勝したら大変なことになるな、と思ったんです。

大学に入った当初は、さほど高校とレベルの違いは感じなかったんです。でもやっていると考え方も変わってきましたね。佐幸先生は、バレーボール界でもラスボスみたいな感じなんですよ(笑)。もう60歳を超えているのに、バレーボールに関しては最先端をいっていて。だから指導を受けていてもすごく新鮮で、「ああ、こういう考え方もあるんだ」って今までにない考えがぼんぼん出てくるんですね。あの方には本当に、今お会いしても頭が上がらないですね。今まで生きてきた中で一番でかい存在です。もし佐幸先生に会っていなかったら絶対に今、こんなところにいないし、だから会えてよかったと思っています。

「あっ、俺は最悪なことをしたんやな」と

それでも僕は、大学2年生のころまで本当にちゃらんぽらんだったんですよ。大学に入ると練習だけじゃなく上下関係もすごく厳しくなって。それまではあまり上下関係とかもなかったので、それがすごく嫌だったんですね。もちろん、社会に出たらすごく大切なことだというのは分かってるんですけど、理不尽なこともいっぱいあるじゃないですか。試合には大学1年生のころから出させてもらっていたんですが、1年生の全日本インカレの前に、「僕を外してください」って佐幸先生に言ったんです。「本当にやる気がないです」って。それでも佐幸先生は僕を使ってくれていたんですが、まだ自分は気づかなかったんですね。

大学2年生のとき、全日本ジュニアから戻ってきた後に、人生初めての逃亡をしました。大学の寮から逃げて、都城の友だちの家に。親にも連絡を取らず、1カ月くらい。本当にあのころの僕は適当だったんです。そうしたら、大学の同期から連絡があって、「まだ帰ってこなくていいからとりあえず親には連絡しとけ」って言われて。僕、親には絶対に怒られると思ってたんです。「お前、何しとるんや」って。でも、それは完全に予想外で、連絡したら、親は普通に心配してくれていたんです――怒ってるんじゃなくて。そこでやっと、「あっ、俺は最悪なことをしたんやな」と気づきました。本当に自分は最悪だった、やっぱり帰ろうと決心しました。でも帰るからには中途半端ではいられないから、もう大学をやめる覚悟で戻ったんですね。

それで大学に戻ったら、佐幸先生が待っていてくださって。僕はもう怒られる覚悟で、どきどきしながら行ったんです。でも、佐幸先生はちょっと目を潤ませながら「帰ってきてくれてありがとう」って言ってくださって。そのときからです、考えが180度変わったのは。それからはもう、毎日どんなことでも全力でやるようになりましたね。今でもそうですけど、どんなことでも絶対に手を抜かないようにしています。

まさか、テレビで見ていたスーパースターと一緒にプレーできるとは思っていなかった

現実的にVリーグ入りを考えるようになったのは、大学3年生の終わりくらいからですかね。いくつかお誘いをいただいて、すごく悩みました。今までは全部人に選んでもらって、他力本願でうまくいっていたんですが、JTサンダーズは自分で選びました。話は小学生のころに戻るんですが、当時、テレビで全日本の試合を見ていたときに、出場していたのが甲斐さん(甲斐祐之さん/元JTサンダーズ)だったんですよ。同じ宮崎の人だし、お父さんもお母さんもみんな甲斐さんに釘付けになっていて、かっこいいなと思っていたんです。その甲斐さんがまだ現役(※2013年当時)でプレーしている、そのあこがれの人がいるチームで一緒にバレーボールをやってみたいというのが、JTサンダーズに決めた一番大きな理由ですね。まさか、テレビで見ていたスーパースターと一緒にプレーできるとは思っていなかったので。

甲斐さんは年齢を重ねてもすっごく上手いし、本当に魅力的なプレーをする人でした。緊張してあまりしゃべれなかったけれど、それでもたまに向こうから話しかけてくれて嬉しかったですね。高校の恩師である鍋倉先生は、甲斐さんの恩師でもあるんですよ。だから鍋倉先生の話をしたり。あと、JTサンダーズに対してもかっこいいイメージはあったんですよ。僕が入部する前は入替戦に回ったりしていたころだったけれど、「JTサンダーズがV・チャレンジリーグに落ちることはないだろう」という気持ちはどこかでありましたね。まだ徳さん(徳元幸人さん/元JTサンダーズ)も現役だったし、そういうすごい選手がたくさんいるチームでやってみたいな、と思ったんです。

自分がバレーボールで活躍するのが、一番の親孝行

自分のプレーに関してよく周りから言われるのは、安定しているっていうところですかね。飛び抜けていいところはあんまりないんですけど、どんなに調子が悪くても自分の仕事はちゃんとできるんじゃないかなとは思います。もちろんまだまだミスは多いですけど、どんな人でも、どんなスポーツでも絶対に波はあるので、そういうときに安定して持ち味を出せるというのは強みなんじゃないですかね。ざっくりですけど、理想は甲斐さんですね。レシーブも上手いし、針の穴に糸を通すような「どうやったらそんなところを抜けるんだろう」というようなスパイクも。見ていてかっこいいと思います、ああいうプレーヤーは。あと野球では井端選手(井端弘和選手)が好きなんですけど、2人ともいぶし銀というか――。自分も、いぶし銀になりたいですね。

僕がバレーボールを続けていく一番の理由は、親への恩返しかなと思っています。自分がバレーボールで活躍するのが、一番の親孝行なんじゃないかなと。お父さんとお母さんは僕がVリーグに入って喜んでますね。よく、試合も見に来てくれています。それと、大学4年生のときに「絶対、佐幸先生を胴上げするんだ」って思っていて、それが結局果たせなかったので、佐幸先生の教え子として活躍している姿を、先生に見せたいですね。僕、バレーボールにはすごくいい出会いをさせてもらっていると思うんです。自分にとってたくさんの人との出会いをくれたものであり、本当に自分はバレーボールが大好きなんだなって思いますね。それに、もうずーっとやってるので、生活の一部なんですよ。やっていないと体がおかしくなりそうなくらい。2日間休みがあったら絶対に体がうずうずしてると思います。だからバレーボールをやっていないときは、特に何もしていません(笑)。休みの日は大体、ぼーっとしていますね。

※本記事は2014年9月時点のインタビューに基づいたものです。

JTサンダーズ