もっと自信をもってプレーできる選手になりたい

常に「バレーボールは嫌だ」という思いがあって──

バレーボールを始めたのは小学校2年生の時です。元々はバレーボールではなく、テニスをしたかったのですが、テニススクールが近所になくて、家から通える範囲で何かできるものがないかと探したところ、小学校で行われているバレーボールクラブを見つけました。
最初は体験という形で通っていたのですが、すごく楽しかったので正式に入部することになりました。

チームは全部で40人ほどいましたが、同学年は6人でほとんどが別の小学校から集まったメンバーでしたね。最初のころはルールもよく分からないまま、練習に参加していました(笑)。もちろん試合に出場することもなかったですし、3年生くらいまでは練習と試合中の応援の繰り返しでした。

練習は週に6日、厳しかったです。きつかったメニューは膝をつかずにしゃがみながら前に進む「アヒル歩き」や逆立ち、夏場の校舎周りのランニング。今でも思い出したくないですね(笑)。
それと、これから練習というときに、周りのみんなが放課後遊んでいるのを見ていると、かなり羨ましかったです。

4年生くらいからレシーバーとして、試合に出始められるようになりました。そして、その時くらいから練習が終わった後に、夜に母と自主練習をするようになりました。
この練習が実を結んだのか、5年生からはスターティングメンバーに定着できました。この時にポジションもセッターに代わりました。

6年生の時はチームとして市の大会で2位、個人では市の選抜に選ばれました。
一方で常に「バレーボールは嫌だ」という思いがあって、母にはそれとなく伝えながらなんとか続けていましたね。

本当に映画の1つでも作れるんじゃないかというくらい濃い1年でした

バレーボールが嫌になり始めていたこともあって、実は中学校の2年間はバレーボールから離れることにしました。
進学先の中学校のバレーボール部関係者からは事前に声をかけていただいていたので、続けようか悩んだのですが、部の方針などが自分には合わないなと思って、中学校ではクラフト部に入りましたね。あと個人的にはテニスをやっていました。

ですが、3年生に進級する頃にバレーボール部の方針が変わったと聞いて、「これなら楽しくできるかも」と思いバレーボールを再開することにしました。ポジションはスパイカーを務めていましたね。
バレーボール経験のない先生が顧問だったので、自分たちで練習方法を調べたり、ミーティングも自分たち主導でやったりしていました。あとから入部した私にもみんな優しく接してくれて、私が中心になることもありました(笑)。

練習メニューも自分たちで組んでいました。体育館を使える時間も制限されていたため、外での練習も多く、体力強化に縄跳びやランニングも取り入れていました。顧問の先生も積極的に他校のバレーボール部を訪れて、練習試合を組んでくれました。

一方で初心者や経験の少ない子が多かったので、練習内容は基礎的なものから取り組んでいました。みんなやる気があって、やるなら勝ちたいという気持ちが強く、自主的に練習をする子もいました。
また同時に“私もこの子と一緒に頑張ろう”と思い、私自身の練習にもより熱が入るようになったことが印象に残っていますね。

最終的には市のリーグ戦で1位になって、神奈川県大会でもベスト16まで進出することができました。本当に映画の1つでも作れるんじゃないかというくらい濃い1年でした(笑)。
さらに個人ではJOC(全国都道府県対抗中学バレーボール大会)の代表にも入って優秀選手にも選ばれました。

全国レベルではスパイカーに向いていないということに気づきました

中学校ではバレーボールを通じて素晴らしい経験ができたのですが、実は高校ではバレーボールを続ける気がなくて(笑)、地元の高校に進学して普通の学生生活を送ろうと考えていました。
そんなことを考えている時に「八王子実践杯」という近隣の中学校などが参加する大会があり、その大会で八王子実践高校(東京都八王子市)にスカウトされて熱心に声をかけていただき、八王子実践高校に進学しようと決めました。

3年間部活をする中で練習よりも寮生活が辛くて何より家に帰りたかったですね(笑)。特に食事面。
私自身は食が細いほうではないのですが“こんなに食べるの!?“というくらい量が多かったです。特に朝食は家だとパン1枚とかで済ませていたのですが、寮だと山盛りのご飯が出てきて……。しかも、食べ終わるまで食堂から出られなかったので、最初のころは寮生の中で食べ終わるのが一番遅かったですね。

練習で印象に残っているのは、レシーブ練習です。体育館の端から投げ込まれたボールを走って取るというのを毎日やっていました。試合には1年生の時からスパイカーとして出場していました。ほかの出場メンバーは先輩ばかりだったのでとても怖かったですし、ビクビクしていました。
週に1日だけ休みがあったので、学校が終わって家に帰ることができました。ゆっくりご飯を食べて、ゆっくり寝る──それが何よりの癒しでした。

春高バレーにも1年生の時から出場することができました。
高校生のバレーボール選手にとっての憧れの舞台という意識はありましたが、私の性格なのでしょうか、大会を通じて、終始緊張することはありませんでしたし、試合が始まった時もいつも通り、「あっ、試合か……」といった気持ちで淡々と臨んでいました。準々決勝で就実高校(岡山県岡山市)に敗れた時もそんな感じでしたね。今思えば、なんだかぼんやりしたまま過ぎていった印象です(笑)。

そんな1年の春高でしたが、“私はスパイカーに向いていない”ということを考えるきっかけとなりました。身長は当時172cmくらいあったので高さには困りませんでしたが、強い球が打てないのと相手のブロックの壁が高いので全国レベルでは通用しないなと思いました。

後輩に声をかけるのに必死だった最後の春高バレー

監督からは入部した直後に「いつかセッターをやらせる」と言われていました。2年生になった時に、正セッターを務められていた先輩が怪我をされてしまい試合に出場することが難しくなってしまいました。結果的にそのタイミングでセッターに転向することになりました。
セッターに転向したことによって、練習内容は大きく変わりました。自主練が多くなり、カゴを使ったトス練習やハンドリングの練習なども結構やっていたと思います。

セッターはコミュニケーションが大切なポジションですが、1年生の時はコミュニケーションがうまく取れずにすごく苦戦しました。ただ、2年生になってからは少しずつコミュニケーションを取れるようになり、春高バレーをすごく楽しむことができましたね。
3年生になるとパソコンでいろんな試合動画を見て、いろんなセッターの動きを勉強しました。特に海外の選手の動きを見て、こんなプレーがしてみたい!と思っていましたね。

最後の大会となった3年生での春高バレーですが、緊張はしませんでした。というのもスターティングメンバーにいた1年生2人がガチガチに緊張していて、声をかけてあげるのに必死でした。
1回戦の松山東雲高校(愛媛県松山市)戦では、会場の雰囲気にのまれた1年生が緊張でミスを繰り返してしまいました。第1セットを落とした後、2セットを連取して僅差で勝つことができました。

その甲斐もあって2回戦からは彼女たちも普段通りプレーすることができていました。私自身も彼女たちに声をかけることで集中できたので普段通り力を出すことができました。

高校最後の試合となった準決勝の金蘭会高校(大阪府大阪市)戦は、技術面は相手の方が一枚も二枚も上手でしたね。最初の2セットは大差で連取されましたが、「どんな場面になっても最後まであきらめないで戦おう」という気持ちは常にみんなで持っていたので逆に奮い立ちました。

その気持ちもあって、第3セットは終盤までリードを奪うことができました。結局最後は負けて終わってしまったのですが、後悔はまったくありませんでした。
試合を重ねていく中でみんなと団結できて、このチームでバレーボールができて本当に良かったと思いました。

“バレーボールのゲームの流れの深さ”を実感した1年目

高校3年生のインターハイの時期にJTマーヴェラスから声をかけていただきました。JTマーヴェラスへの入部を決めたきっかけは3つあります。
1つ目はチームみんなの人柄の良さです。入部してからも優しく接していただいています。そして、2つ目はバレーボールに対する環境面。3つ目はJTマーヴェラスの“勝ち”に対する姿勢です。やはりやるからにはとにかく勝ちたいし、チーム全体が同じ方向を向いているので、それも決め手になりました。

2019/20シーズンはサマーリーグから出場し、リーグも開幕戦からスターティングメンバーとして出場しましたが、当然ですが高校時代とレベルが全く違いますね。
まず、スパイクの打力は全く違いました。外国人選手はもちろん日本人選手でもレベルが高いことに驚きました。
そしてどんなチームも穴がない。“ここにスパイクを打てば良い”と思っていた箇所に打ったとしても、全員が拾ってくる。セッターの技術として、一つ一つの精度を高めていかないと厳しいなと感じました。
トスの位置が少しでも高かったり、外れたりすれば得点にできないだけでなく、失点にもつながってしまう。それをきっかけに流れが相手に行く怖さを経験し、“バレーボールのゲームの流れの深さ”を実感しました。

これから最高のセッターになるため、もっと頑張っていかなければいけない

セッターは全ポジションとつながりがある特殊なポジションなので、セッターの気持ちを理解できるのはセッターだと考えています。
そんな時に田中美咲さん(現JTマーヴェラス事務局)や山本美沙さん(現JTマーヴェラス事務局)、柴田(真果)さんといった先輩方に温かく見守っていただけたのが大きかったです。
落ち込んでいる時や良くないプレーがあったときに絶妙なタイミングで声をかけていただきました。そこで頑張ろう、勝たなきゃいけないという気持ちを奮い立たせることができました。

1年目でファイナル出場を経験できましたが、ここでも全く緊張はしませんでしたね。私、なんか変なのかなというくらい(笑)。第1セットを取った後、第2、3セット連取されたときも、「私たちなら勝てる」「大丈夫、やれる」という気持ちが強かったのが大きいと思います。
優勝が決まった瞬間、シーズン中につらいことや精神的に追い詰められていた時期もありましたが、がんばって良かったと思いました。

自分が掲げている目標の一つに「優勝に貢献する」という目標があったので、クリアできたという気持ちが強くありました。
ここで満足せずに、2年目以降も最高のセッターになるためにより一層がんばろうという気持ちです。そして、何よりももっと自信をもってプレーできる選手になりたいと思います。

  • 本記事は2020年9月時点のインタビューに基づいたものです。