守備に関しては自分が一番でありたい

ひたすら「守備」と「サーブ」

両親ともに中学校の体育教師でバレーボールを教えていました。
加えて姉も兄もバレーボールをやっていて、自分も小さい頃から体育館によく連れて行ってもらい、その流れで気づいたらバレーボールを始めていました。
母が地元のスポーツ少年団女子の部で教えていた影響もあり、小学校1 年生の時に兄についていき、隣の市にある男子の高千帆バレーボール教室(山口県山陽小野田市)というチームに正式に入りました。

ポジションは特に決まってなくて、1~2年生の時はレシーブだけ、3~4年生でセッター、5~6年生でスパイカーと色々やっていました。ちなみに、バレーボール一家ではありますが家族のプレースタイルはみんなバラバラで、父はジャンプ力のあるスパイカー、兄は守備が得意な選手、母はオールマイティーに何でもこなせるセッターでした。

バレーボール教室のメンバー数は10人前後と少人数チームでしたが、2年生の時は全国大会、5~6年生の時は中国大会に出場するような強豪チームでした。
スパイクよりもステップを使ってレシーブを落とさないようにするなど、ひたすら守備を練習する毎日でした。同じようにサーブの練習も多く、この時から1本目のサーブの大切さを叩き込まれました。
とにかく監督が厳しく「試合に負けたらだめ」「ボールを落としたらだめ」と教えられて、今では考えられないくらい熱の入った指導でした(笑)。
厳しい監督に対して選手はどう頑張っていくかという、監督vs選手みたいな構図でしたね(笑)。

大会では他のチームがディグ~トス~スパイクの3連携で返すところ、自分たちのチームは身長が全体的に小さいこともあり、3連携でスパイクまで持っていくとブロックされてしまうため、大きい選手を狙ったダイレクトスパイクやディグからのスパイクでポンポンと返して点を取るなど、常に頭を使うプレーを指導されました。
本格的な指導のおかげもあって、大きな大会にも出場できるチームになったのだと思います。

中学時代は「俺についてこい!」

地元の中学校にはバレーボール部がなく、推薦をもらっていた学校法人山口高川学園 高川学園中学校(山口県防府市)に特待生で入学を決めました。
部員は全体で30人程度でしたが、自分が1年生の時に創部3年目にして全国大会3位の結果を残していたので、それに結構ビビっていた部分はありました。

中学校では小学校の時のようなワンツーバレーができなかったりと環境も変わったので、厳しい中でも高いレベルでやれていると感じました。
スパイクの打ち込み本数や練習時間は増えましたが、レシーブの練習内容は変わらなかったので小学校の時に厳しい練習をやっておいてよかったと思いましたね。

1~2年生の時には中国大会1位で全国大会に出場できていたのに、3年生では中国大会3位での全国大会に出場になってしまい、3年連続で全国大会に出場できたものの、1位で全国大会連続出場できなかったのは悔しい思い出です。
特に1年生の夏の県予選はリベロでの出場でしたが、目の付近を骨折してしまい、中国大会も全国大会も出場できず、結果的に全国3位で終わってしまいました。試合をコートの外から見ることになってしまい、めちゃくちゃ悔しかったのを覚えています。
この出来事から、大会に出たからには勝つしかない!とポジティブな気持ちでやっていこうと思いました。
3年生になるとやんちゃな性格もあって、ポジティブな気持ちで「俺がやるしかねえ!」「俺についてこい!」という感じで良い意味で調子に乗っていましたね(笑)。

チャラチャラしてもバレーボールは全力

高校は中高一貫の6年制だったので、特待生のまま高川学園高等学校へ進学しました。 中学校の時は19時半に終わっていた練習が、高校に入って20時半まで練習ができるようになって嬉しかったですね。
夢中になっているときは時間が経つのが早く、面倒くさい練習をしているときは時間が経つのがすごく遅かったのを今でも覚えています(笑)。
練習内容は基礎練習よりも、実践に近いゲーム形式が多かったと思います。

身長が170センチくらいしかなかったため、最初はセッターを任されていました。ただ、基礎練習をしていく中で徐々にジャンプ力が上がってきて、何も気にせずに勝手にスパイクを打っていたら、いつの間にかスパイカーを任されるようになっていました(笑)。

3年生の時、国体と春高を控えた時期から主将を任されました。
毎日の練習の中でチームとして力が足りないところに気づいて、今の時期に必要な練習が何なのかを考え、それを先生に伝えて練習メニューを決めていたので、主将としていい仕事ができたと思います。ちなみに、きつい練習はみんなやりたがらないので、自分が勝手にきつい練習を入れたメニューをこっそりと先生に伝えてわざと厳しい練習をしていましたね(笑)。

自分も含めて、もともと高川学園は“チャラチャラした選手”が多かった印象でした。ただ、見た目はチャラチャラしていても、バレーボールをやる上でボールを簡単に落とすのはありえないという考えをみんなが持っていました。めちゃくちゃスリーマンするし、ボールを落とさないようにフライングで全部取る。ディグでも全力のスパイクを受けて、スピードに慣れるという練習をしていました。

高校時代の思い出として今でも記憶に残っているのは3年生の時に出場した第69回の春高です。前年は2回戦までしか進出できなかったのですが、この時は準決勝まで進出することができました。

勝ち進んでいく中で「このまま未知の世界へ突き進もう!」と監督と話したのは良い思い出です。緊張を解くため、チームメンバーと「もしかしたら、いけんじゃね?」「自分たちがやってきたことやればいけんじゃね?」と軽いノリとポジティブ思考で試合に臨んでいたら、結果的に3位になることができました(笑)。

試合の中でも自分たちがやってきた練習が自信につながり、ここだけは負けないようにしようというのが明確になったことで、流れが相手チームにある時も気持ちを落とすことなく、意識的に気持ちを切り替ることができるようになりましたね。
また、基本的には“監督に頼らずに自分たちでチームを作る”という姿勢で日頃から取り組んでいたので、試合中のコート内で選手たちだけで作戦を変えられるという強みがあり、相手のプレースタイルに合わせて臨機応変に対応することができました。もちろん息詰まったら最終的には監督が指示を出してくれる安心感も大きかったです。そのおかげもあって、国体5位、春高3位という結果を高校時代に残すことができました。

逆転勝ちにつながった後輩のひとこと

2年生の時に日本体育大学(東京都世田谷区)から声をかけてもらい、スポーツ推薦で入学しました。
両親が体育教員という環境もあり、自分も教員免許を取りたいという想いも大きかったと思います。その時はまだバレーボール選手になることは全く考えてなくて、大学でもピンチサーバーで試合に出られればラッキーくらいにしか思っていませんでしたね。

大学のバレーボール部は雰囲気が独特で、その独特の雰囲気に慣れるまでに苦労しましたね(笑)。
先輩は守備もスパイクもレベルが高くて驚きました。
高校の時はチャラチャラやっていましたが、レベルの高い関東大学男子1部リーグでバレーボールができることにすごさを感じ、バレーボールにちゃんと向き合って自分をもっとレベルアップさせないといけないと強く感じました。

部の監督でもある山本健之監督は、もともとJTバレーボール部(現 JTサンダーズ広島)で活躍していた選手で、指導も非常にわかりやすかったです。自分は当時アウトサイドヒッター1本でやっていましたが、監督からはレシーブを重点的に教えていただきました。ディグの上げ方やつなぎ、2段トスなどを徹底してご指導いただきましたね。

特に印象に残っている試合は、第73回全日本バレーボール大学男子選手権大会の3回戦、対筑波大学(茨城県つくば市)戦です。
最初に相手に2セット取られてしまい、3セット取り返すという状況でしたが最初の2セットの相手の攻める勢いに圧倒されてしまいました。そんな局面にも関わらず、後輩が「最後は楽しんでやりましょうよ!」と明るく声をかけてくれたことでみんなが奮い立たされ、その一言から試合の流れが変わって見事に逆転勝ちすることができました。準決勝の日本大学(東京都千代田区)戦もそのまま流れを活かすことができて勝てたところがあります。

6年ぶりに決勝まで進みましたが、早稲田大学(東京都新宿区)はもう最強でしたね(笑)。
攻撃も守備も完璧にこなす選手が6人揃っていた印象です。全員が高いレベルでなおかつ組織的だったので、穴を探そうとしても見つからず、相手が弱みを一切見せずに全力で向かってきたので隙がないという感じでした。その状況でどう戦うか悩みつつも、攻めのベストプレーも出せて、1セット1セットが惜しかった部分もありましたが、最後に取り切れなかったところが相手の強さだったのかもしれません。
優勝を目指していたので負けたときはやっぱり悔しかったです。

実はこの大会の直前、4月から8月までの4カ月間は新型コロナウイルスの影響で活動できない状態で、チームメンバーもみんな地元に帰って筋トレばかりでボールにほとんど触ることができませんでした。試合が全くない状況の中、どうチームを作り直していくか考えた上での大会出場だったので、チームがうまくまとまって最後に良い結果を残せたのは主将としてすごくうれしかったですね。

バレーボールが生活の中心に

広島県は地元の山口県と近いというのもありましたし、尊敬していた大学の山本監督がJT出身だったということもあり、監督の後を追ってJTサンダーズ広島への入部を決めました。

大学生の時にお誘いいただいた夏の合宿でJTサンダーズ広島の選手と一緒になることがありましたが、とにかくみんな怖く見えましたね(笑)。
静かであまり喜ばないように感じましたが、実際にJTサンダーズ広島に入部したら全然そんなことなくてみんな良い先輩ばかりでした。練習の雰囲気も良くて、入部前に想像していた雰囲気と違ったのでギャップに驚きました。

入部当初、井上慎一朗選手にはたくさん助けていただきました。
最初は自信もなく、慣れないところでプレーする中で悩んでいたら、慎さんがいつも「大丈夫! 大丈夫!」と背中を押してくれたり、「できるできる!」と優しく言ってくれたりする言葉が心に刺さって、もっと前向きにやればいいんだということを教わりましたね。

学生の時は授業を受けてから練習をやるのが当たり前の生活でしたが、今は仕事としてバレーボールをやっているので、日常生活でもずっとバレーボールのことを考えるようになりました。
自分の時間が作れるようになったのでストレッチをして、ゆっくりお風呂に浸かるなどケアも意識するようになりましたし、休日でも疲労がなければ午前中にちょっとボールに触ったりもします。逆にしんどいときは体をしっかり休めて、次の日からまた頑張れるように体の状態を整えるなど、バレーボール中心に過ごしています。

元気を与えられるようなプレーをしたい

これからの目標ですが、もともとバレーボールが大好きな人以外にも、もっとバレーボールを知ってもらいたいし、少しでも興味を持っていただき、バレーボールで皆さんに元気を与えられるようなプレーをしたいと思っています。
目指すべき姿として、プレー面では守備に関して自分がチーム内で一番になりたいです。チーム内の存在としては、自分がいるだけでみんなが安心してプレーできるような選手を目指してます。
また、合田心平選手のようなベテラン選手が声掛けをすることが多いですが、やはり若手が率先して声を掛けていくべきだと感じています。若手の声もきちんと聞いてくれる先輩がたくさんいるので、先輩に甘えずに自分たちからも発信していきたいです。
試合に出たときにチームを盛り上げ、チームが落ち込んでいるときは声掛けを積極的にして、空気をガラッと変えられるような選手になれればと思います。

コロナ禍で観客の数が少なくなってしまうのは仕方がないことですが、皆さんの応援が選手の力になりますので、少しでも応援していただけるとうれしいです。

  • 本記事は、2021年9月時点のインタビューに基づいたものです。