A History of Tobacco たばこの歴史
専売化された「たばこ」
文明開化の波に乗って「たばこ」産業が躍進すると、国の制度も大きく変わります。
この章では、明治37年に制定された「煙草専売法」と
専売法がもたらした新たなる「たばこ」の変化について解説します。
「たばこ」の税金に着目した明治政府
  明治維新を経て、近代国家として歩み始めた日本の大きな課題は、国家の財源確保でした。
  当時の政府の収入の核は各個人の土地に課した地租でしたが、庶民の不満が高まったため、対策として政府は消費税の導入に乗り出します。そこで注目されたのが「たばこ」からの税徴収でした。
  この課税の流れは、3段階に分けて行われました。
1.煙草(たばこ)税則
明治9(1876)年に施行。営業税にプラスして、各商品に添付した印紙から税金を徴収した
2.葉煙草専売法
税収入の増大を図り、明治31(1898)年に施行。原料の葉たばこを国が買い上げた
3.煙草専売法
明治37(1904)年7月に施行。「たばこ」の製造から販売までが国の管理で行われるようになった
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「たばこ印紙」
明治15(1882)年頃に使用されていた。
  「葉煙草専売法」は、明治27〜28(1894〜1895)年に日本と中国が戦った日清戦争を受け、国家の財政補助のために導入された税金でしたが、逆に葉たばこの不正取引や安い輸入品の国内流入を招いてしまい、政府は目標の税収を得ることができませんでした。このため、すべてを国が管理する「煙草専売法」が制定されることになったのです。
紙包(かみづつみ) 袴腰(はかまごし) 畳紙(たとうがみ) 玉造(たまづくり)
「煙草税則」が施行されると印紙を貼りやすくするために、「たばこ」の包装にさまざまな様式が用いられた。
専売化当初に発売された「たばこ」
  明治37(1904)年に「煙草専売法」が制定されると、すぐに大蔵省専売局から新しい「たばこ」が発売されます。
  吸口部分に円筒形の紙を付けた「口付たばこ」では“敷島・大和・朝日・山桜”の4銘柄が、「刻みたばこ」を紙で巻き、両端をそろえて切断した「両切たばこ」では“スター・チェリー・リリー”の3銘柄が、市場に登場しました。

  その後も、同年9月には「口付たばこ」の“カメリヤ”が、翌38(1905)年には「キセル」用の「刻みたばこ」として“福寿草・白梅・さつき・あやめ・はぎ・もみぢ”の6銘柄が発売され、専売局発の新しい“たばこブランド”が次々と確立されていきました。
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明治37〜40(1904〜1907)年頃に使用されていた「たばこ」の定価を明記した表。
時代は「刻みたばこ」から「紙巻たばこ」へ
  「たばこ」が専売化された当初は、市場における「たばこ」の消費量は「キセル」に用いる「刻みたばこ」が全盛でした。これが変化したのは大正期のことです。都市部を中心に「紙巻たばこ(=シガレット)」の需要が増え、ついに大正12(1923)年には、「紙巻たばこ」の消費量が「刻みたばこ」を上回ることになったのです。

  一方「紙巻たばこ」においても変化は起こり、昭和5(1930)年には「両切たばこ」の製造数量が、明治期より人気を博していた「口付たばこ」を上回ります。
  こうして昭和の初期には、人々の嗜好の変化と人気に応じて続々と新しい銘柄の「たばこ」が世に登場することとなりました。
商業美術の発展と「たばこ」
  「たばこ」の製造が民営から専売化されると、販売競争の必要がなくなったため、「たばこ」の宣伝ポスターは約10年あまり街頭から姿を消します。この流れに変化をもたらしたのが、大正から昭和にかけての日本の商業美術の発達でした。

  この時代に入ると、日本の商業美術家は海外の作品から影響を受け、従来の絵画的なポスター制作から転換を図り、“図案=デザイン”の概念を導入したポスターを制作しはじめます。やがて彼らの一部は“図案家”と呼ばれるようになり、大衆文化のなかで商業美術の時代を切り開いていきました。
  こうした時代の流れと重なるように、「たばこ」においても宣伝の必要性が再認識され、その結果、大正4(1915)年にはポスターの制作が復活したのです。

  約10年におよぶ「たばこ」のポスターの空白の時代においても、専売局は商品の顔である名称およびパッケージのデザインは重視し、かつての民営企業に負けずおとらずの姿勢で工夫を凝らしていました。
  その姿勢と日本の商業美術の発展とが重なり、昭和初期には、当時の商業美術界の第一人者だった杉浦非水(ひすい)や野村昇らが専売局の嘱託となり、アート性の高い「たばこ」のパッケージやポスターを制作していったのです。
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昭和5(1930)年に杉浦非水が手掛けたポスター。
彼は三越呉服店のポスターなどを手掛けたことでも知られている。(左)
杉浦の弟子である野村昇が昭和7(1932)年に制作したポスター。(右)