日本の葉巻

民営から専売制へ! 新たなる製造の流れ  民営から専売へとたばこの製造・販売が移行した時代。国内での葉巻の製造は、紆余曲折を経て本格化します。
1.幕末の世に登場した西洋の喫煙スタイル 2.明治時代に始まった国産の葉巻の製造  3.民営から専売制へ! 新たなる製造の流れ TOP

苦難を乗り越え誕生した葉巻製造企業

  日本で最初に葉巻を製造したとされる野田大九郎に、アメリカでたばこ作りを学び、葉巻の製造に挑戦した岩谷右衛と、2人の人物の貢献によって、前進するかに見えた国内での葉巻の製造ですが、その後、流れは終息します。明治25(1892)年前後から、紙巻たばこの製造会社の中にも葉巻作りに乗り出す層が出てきはしたのですが、それらの会社で製造された葉巻は海外産のクオリティに遠くおよばず、人々の支持を得ることはできませんでした。この状況を打破したのが、自身も葉巻愛好家だった実業家の久米民之助でした。

  久米が葉巻作りに乗り出したのは明治33(1900)年頃といわれ、南洋視察で出向いたフィリピンで葉巻の製造工程を見たのがきっかけとされています。そこで彼は、葉巻の製造・販売に活路を見いだし、当時の日本には存在していなかった葉巻専門の製造会社を起こすことにしたのです。やがて久米は「代々木商会」を設立。原料となる葉たばこの選択をはじめ、製造方法や包装様式まで、葉巻を商品化するために必要な工程を時間をかけて学びます。さらに久米は、フィリピンから技術者を招聘。葉巻作りに不可欠な環境を整備するとともに、原料の葉たばこまで輸入し、「代々木商会」を本格的な葉巻を製造できる企業へと導いたのです。
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群馬県沼田市の沼田公園内に設置された久米民之助の胸像。彼は、土木事業なども多く手がけていた。

専売局が受け継いだ国産葉巻の製造

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昭和初期の工場内の様子。葉巻作りの現場では、多くの女性が活躍していた。

    「代々木商会」が数種の葉巻を販売したことで、国内での葉巻の認知度は向上しつつありました。しかし、ここに変化が生じます。明治37(1904)年に、国がたばこの製造・販売を管理する「煙草専売法」が制定され、紙巻たばこはもとより、葉巻の製造・販売も大蔵省専売局が行うことになったのです。とはいえ、国内産の葉巻の製造・販売は、走り出したばかり。葉巻に関しては、知識も経験も全く有していなかった専売局は、例外的に「代々木商会」に葉巻の製造を依頼します。こうして明治38~39(1905~1906)年の2年間は、国内での葉巻の製造は「代々木商会」で行われることとなりました。

  それから後の明治40(1907)年。「代々木商会」から技術を受け継いだ専売局は、独自に製造した葉巻を販売します。これ以降、専売局は新たな葉巻を提供し続け、世界的にも評価を受けた葉巻は、広く人々の間に浸透しました。
専売局が生み出した国内産の葉巻パッケージ集
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ペルフェクトス
「代々木商会」が専売局からの依頼を受け、製造していた葉巻。25本入りのパッケージには木箱を使用。蓋にはブランドの焼き印が押されていた。

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セニョリタス
“シガリロ”と呼ばれる、細巻で小型の葉巻が「セニョリタス」。5本入りのパッケージには、木地を模した紙が用いられている。

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グロリア
昭和天皇の即位を記念して発売された銘柄。刷り物上に金色の鳳凰を浮き立たせるなど、豪華な装飾が施されている。

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