炎の画家ゴッホ

晩年と後世の評価

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衰弱の中でも手放さなかった絵筆とパイプ

  “耳切り事件”によってゴーギャンがアルルを去り、再び孤独の身となったゴッホ。やがて病に伏した彼は、アルルの病院で療養した後、1889年5月にサン・レミの精神療養院に入院します。オリーブ畑に囲まれた訪れる人もほとんどない静かな場所でゴッホは、鉄格子がはめられた病室の窓から見える景色を描き続けたのです。

  ときおり妄想や幻聴に襲われながらも、彼は星や三日月、木々を、うねるように描く新たなタッチをこの療養院で生み出し、代表作の一つである「星月夜」を完成させます。ユートピアでの暮らしや、アーティストとの共同体を作る夢はあえなく消え去りましたが、皮肉にも世俗から隔離された環境が、ゴッホの創作活動に十二分な時間を与えたのでした。ちなみに、この「星月夜」に代表される晩年の作品は、その独創的でミステリアスな表現から、現在もさまざまな解釈がなされています。それだけ当時の彼の精神世界は、複雑極まりないものだったのでしょう。

療養中に描かれた代表作の一つ「星月夜」。夜空に描かれた渦が、この時のゴッホの不安な心理状態を表すかの如く、うねりを見せる。

ゴッホが療養生活を送った病院の一室。ゴッホの入院生活は1年に及んだ。


  しかし、病状は思うように回復せず、翌年ゴッホは環境を変えたいと申し出て療養院を出ると、パリ近くにあるオーヴェール・シュル・オワーズの農村に下宿。「医師ガシェの肖像」に描かれた精神科医に見守られつつ、パイプを手に精力的に作品を描き続けました。

  が、精神のバランスを保ち続けるのは容易なことではありませんでした。1890年7月27日、下宿先からいつものようにパイプをくわえて仕事に出かけたゴッホは、日が暮れてから苦しそうに宿に戻ります。この時、すでに彼は拳銃で自らの胸を撃ち抜いていたのです。手の施しようがないままベッドに横になり、欲しいものはないかとガシェ医師に聞かれたゴッホは、たばこを吸いたいと申し出たといいます。翌日、最後まで世に広くその才能を認められることのなかったゴッホは、パイプをかたわらに永遠の眠りにつきました。

晩年に描かれた「カラスのいる麦畑」。暗い空を群れ飛ぶカラスの姿が、ゴッホという画家の不吉な未来を暗示しているかのようである。photo/Van Gogh Museum


死後に得た世界的な評価

  諸説あるものの、ゴッホの作品は生前わずかに1枚しか売れなかったといわれています。それほどまでに評価されることのなかったゴッホでしたが、弟のテオだけは兄の才能を認め、経済的な支援を続けてきました。ところがその最愛の弟も兄の突然の死にショックを受け、体調を崩したまま、ゴッホの死から半年後に息を引き取ってしまうのです。

現在、オーヴェールの地には、ゴッホと弟のテオの墓が並んで埋葬されている。photo/GFreihalter

  テオの意思は、妻のヨー(=ヨハンナ)に引き継がれました。ゴッホの名を世界的なものにしたのは、その後のヨーの功績によるものといっていいでしょう。彼女はゴッホの作品を管理して販売を続け、1914年には彼の600通を超える手紙をまとめた書簡集を発表。“耳切り事件”や自殺など、壮絶なエピソードで綴られたゴッホの生きざまは話題となり、その作品も人の目に触れる機会が増加。次第に評価されていったのです。また、1934年にはアメリカの小説家アーヴィング・ストーンが「炎の生涯 ファン・ゴッホ物語」を発表。このベストセラーは映画化もされ、ゴッホの名を世界的なものとするのに貢献しました。


  やがて1973年には、ゴッホの出身地であるオランダに国立のファン・ゴッホ美術館が創設され、彼の多くの作品が所蔵されることになります。この影響もあって市場に出回るゴッホ作品の稀少性は高まり、高値で取引されるようになったのです。日本でもバブル期の絶頂にかけ、ゴッホ人気は一気に過熱。当時のレートで「ひまわり」を約53億円で、「医師ガシェの肖像」を当時の絵画史上最高の落札額となる124億円で日本人が相次いで落札し、美術界のみならず世界的なニュースとなりました。

  パンとコーヒーで日々を過ごし、パイプをふかしながら一人、筆を握り続けたゴッホ。もし、今の世界的な評価が彼の耳に入ったとしたら…。それでも孤高の天才は表情ひとつ変えることなく、紫煙の漂うアトリエで、キャンバスに向かい続けたことでしょう。

晩年のゴッホの心の友を描いた「医師ガシェの肖像」。ガシェにはルノワールやセザンヌといった著名な画家と交流を持つ、美術愛好家としての一面もあった。


COLUMN/2013年に発見された黄金期の風景画

 

  夕日が木々や小麦畑を黄金色に染める様子を描いた1枚の風景画。長年、ある収集家の屋根裏部屋に眠ったまま贋作とされていたこの作品が、じつはゴッホ本人のものだったという鑑定結果が報じられたのは2013年のことでした。それまでに何度も贋作騒ぎがあった作品だけに、このニュースは美術ファンの間で大きな話題となりました。

  ゴッホが名作を残した地・アルルの郊外にあるモンマジュールの丘の日暮れのひとときを描き、「モンマジュールの夕暮れ」と名付けられたこの作品。アムステルダムのゴッホ美術館がその真贋の鑑定を依頼され、最新機器を使い、2年の歳月をかけて慎重に検証を行った結果、正真正銘のゴッホ作品であることが認められたのです。ゴッホが弟のテオに宛てた手紙にも『後方には丘の上に廃墟、そして谷には小麦畑がある』など、この絵の光景に触れた一節があり、このような事実の数々が、ゴッホが死の2年前に描いた貴重な作品を世に送り出す後押しとなりました。


1888年に制作されたといわれる「モンマジュールの夕暮れ」。同年はゴッホが自身の代表作となる作品を次々描いていた“黄金期”とされている。photo/Van Gogh Museum

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