伝統ある喫煙具文化を伝えるために

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伝統ある喫煙具文化を伝えるために キセルの街だった新潟県・燕市
image キセルでの喫煙が、街中や家庭でも よく見られていた昭和の中ごろまで 日本一のキセル生産量を誇っていた新潟県・燕市。 まずは燕市のキセル作りの歴史を簡単に触れていきましょう。 image
江戸時代から始まった燕市でのキセル作り
 江戸時代の初期から和釘(わくぎ)の生産が盛んに行われていた新潟県・燕市。その後、近郊の間瀬(まぜ)銅山から良質な銅が産出されたこともあり、江戸時代中ごろの明和年間(1764〜72)〜安永年間(1772〜81)にかけ、江戸や会津からキセル作りの技術が伝えられ、燕市ではキセルの生産も行われるようになりました。
日本一のキセル生産地に
 ところが、明治維新(1868)後に外国から輸入された洋釘が、明治13(1880)年“東京の大火”をきっかけに日本の市場を席巻。和釘に代わって洋釘が普及しはじめると、燕市の和釘生産は急速に衰退しました。このため多数の製釘職人たちは、ヤスリ・銅器・キセル・矢立(やたて※)・彫金などの生産へと転業します。
弥彦山写真
弥彦山(やひこやま)。この山のふもとに、良質の銅を産出する間瀬銅山がありました。
(写真提供:弥彦観光協会)
 なかでもキセル作りは、明治時代末、年間6万5,000個余りもの製造量を数え、大正時代には金物プレス機導入による「プレス加工式キセル」の製造まで行われるようになりました。昭和4(1929)年には、燕の人口約1万2,000人のうち、20%近くの人々がキセル作りに携わっていたと言われ、最盛期には全国のキセル生産の80%を占めていました。
※ 携帯用の筆記用具。墨壺がついた筒の中に筆を入れ、帯に差し込んだりして持ち歩く。
 明治以降は、万年筆や鉛筆などの簡便な筆記用具が矢立にとって代わるようになった。
(図版) 越後平野のほぼ中央部に位置する、新潟県・燕市。
紙巻たばこの普及で生産量が減少
 隆盛を誇っていた燕市のキセル製造業に陰りが見え始めたのは、昭和30年代後半〜40年代初めのこと。日本人の喫煙形態が、それまでのキセルから、より手軽な紙巻たばこへと急速に変化していったことで、キセルの需要が目に見えて落ちていきます。
 そして現在の燕市は、戦後の進駐軍向けから本格化した金属洋食器の製造を筆頭に、ステンレス製の食卓用品や厨房用品などを中心とする、金属製ハウスウェアの製造で日本を代表する産地となっています。

 しかし、そうした中でも、小規模ながらキセルの製造は続けられており、東京や大阪の問屋を通じて市場に供給されているのです。
キセル各部の名称  羅宇(らう)キセル :口元,吸口,羅宇(らう),小口(こぐち),雁首(がんくび),火皿
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line 羅宇(らう)キセル /雁首と吸口の部分を金属などで作り、たばこの煙を通す管(くだ)の部分には、竹などを用いたキセル:口元,吸口,羅宇(らう),小口(こぐち),雁首(がんくび),火皿 羅宇キセルの製作工程はこちらから 延べキセル/雁首と吸口、その2つをつなぐ部分もすべて、金属で作ったキセル:吸口,胴,雁首(がんくび),火皿延べキセルの製作工程はこちらから
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※たばこと塩の博物館1階エントランスホールに設置されている情報ボックスでは、
燕市のキセル職人、故・長谷川豊平(とよへい)氏のキセル製作の記録映像 「き
せるづくり」(平成2年取材・上映時間7分30秒)を視聴することができます。
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燕市の産業の変遷を伝える史料館
 キセルやヤスリ、洋食器など、燕市産業の変遷を展示している本館と、故・丸山清次郎氏のコレクションを展示している矢立煙管(やたてきせる)館などからなる燕市産業史料館。展示品である故・長谷川豊平氏、野島厚次氏らキセル作りの名人の作品や、丸山コレクションのキセル・たばこ入れ・矢立(やたて)は一見の価値ありです。 写真1
燕市産業史料館写真 写真2 写真3
燕市産業史料館写真
燕市産業史料館のホームページはこちら
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